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第二回ひつじが文学賞に応募した文章

 こんにちは。銀野塔です。

 ブックバーひつじがさんが開催された、第二回ひつじが文学賞に文章+五行歌で応募していました。賞は獲れなくても、ひつじがさんのお客様に少しでも読んでいただけて、あわよくば「五行歌」という存在の知名度がちびっとでもあがるといいな、ということで。

 今日、ひつじがのシモダさんから、丁寧な感想のポストカードとおまけのポストカードが届きました。とても嬉しいです(この記事のタイトル画像がそれです。ひつじがと書かれた青いポストカードの裏に感想をぎっしりと手書きで書いていただきました)。素敵な賞を企画運営してくださったことにこの場を借りてお礼申し上げます。

 今日は応募した文章をここに上げたいと思います。「手紙」という企画テーマ、A4片面一枚に収まる分量という規定に沿って書いたものです(ちょっとミスを見つけてしまったので応募したものからちょっとだけ修正してますが)お気が向かれましたらどうぞ。

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  手書きの手紙を 親愛なる人へ
                     銀野塔

 手書きの手紙を書くことが減った。電子メールを使えるようになってからというもの、たいていのことは可能なかぎり電子メールですませるようになった。なんてったって手書きの手紙より格段に手っ取り早い。私は主にパソコンを使うが、手書きに比べたら書く作業自体も楽で、早く書ける。折りたたんで封筒に入れて宛名を書いて切手を貼って、という手間もいらない。送信すれば瞬時に相手に届く。字が下手なのもあって、電子メールだと字の上手い下手が関係ないのもありがたいな、と思う。
 しかし、その簡単さに一抹のさびしさをおぼえるようになったのも事実だ。そして、日々目にする文字のほとんどがなんらかの活字体になってしまったことで「手書き」の持っている特別さにあらためて気づいたのだ。
 どういうことかというと、手書きの文字には「身体性」があるのだ。
 電子メールなどの文字の場合、その機器に設定されているフォントで文字が綴られてゆく。そしてそれは、書く側の身体がどういう動作をして書いたものかを全く反映しない。華麗なるキータッチでなめらかに入力したものであろうと、たどたどしく一個一個キーを確認しながら入力したものであろうと、同じフォントを設定し同じ言葉を入れていれば、全く同じ字体でそこに綴られる。
 そこへゆくと、手書きの文字は「書いた人がどういうふうに身体を動かしたか」が直接その形に反映される。どんな筆記具を選び、紙のどの地点にそれを下ろし、どういうルートで紙の上を滑らせ、そしてどこで離すか、次にどこへ下ろすか……そういったたくさんの繰り返しで文字の形がそこに生まれてゆく。そこには筆圧や書く速度、勢いといった要素も含まれてくる。手書きが当たり前だった時には意識していなかったことだし、手書きとはそういうものだと云われてしまえばそれまでなのだが、なんだかいつからか、それがとてもいとおしいことのように思えている。
 そうやって、身体を動かした結果がそのまま紙の上に反映され、そしてその紙の実物がそのまま相手に届くのだ。それは、文字を通じて、相手に触れるということにかぎりなく近いのではないだろうか。手を動かして書いた文字が相手の目になぞられる、それは捉えようによっては官能的なことでさえある。

 たまには手書きで手紙を書く。
 お礼状などのあらたまった手紙を、ちょっと緊張しながら、下手なりにできるだけ丁寧に書くこともあるし、友人への手紙、というよりは走り書き程度のものを、下手で雑な文字でもまあ許してくれるよね、という感じで書くこともある。どちらにせよ、その相手に応じた親愛の気持ちを込めて「触れる」思いで文字を綴るようになったと感じている。
 恋文でも綴る相手がいて、それこそ相手の視界をそっと愛撫するような気持ちで手書き文字を綴ることがあるといいのだが……。
 そういうシチュエーションを空想して、以前書いた五行歌(※後注)がある(筆名:南野薔子)。それを紹介して結びとしたい。

 白い便箋に
 深緑のインクで
 したためる手紙
 君の瞳が文字をたどりゆくさまを
 思い浮かべて

南野薔子五行歌集『硝子離宮』(2015年・市井社)より
※五行歌:草壁焔太氏が考案した、五行で書くことだけがルールの新しい短詩形

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