【気まぐれエッセイ】本音の威力

大人になるにつれ、どんなに能力が高い人や美しい人より、本音で生きている人が強いと感じるようになってきた。正論や立派な意見よりも、正直な気持ちに人は心を掴まれるし、それを言える人に、建前で生きているうちは決して敵わない。


私はいつからか、ごく一部の親しい人にしか本音を言わずに建前で過ごしてきた。それは思春期に本音を言い過ぎて、えらく損をしていると感じる機会が多かったからなのだけど、上京し、私が都会のエネルギーに負けて疲弊していく中、勝ち残っていく人たちは皆本音で生きている人たちだった。

意識的にそうしているというより、その生き方しか知らない、そうしか生きられないといった感じの人が多かったと思う。中にはある時期を境に自分をさらけ出すようになった人もいたけれど。とにかくどの人も、自分の中にあるものを、重いストッパーや歪んだフィルターを通さず「ありのままに限りなく近い状態」で、表に出せる人たちだった。

それは何も、単に意見をハッキリ言うとか、思っていることが顔や態度にすぐ出るとか、そういうことだけではなくてね。

「私はこういう人間です」と恥じることも偽ることも、武装することもなく、ただそこに存在出来ている、というのかな。もし至らない点を自覚していたとしても、そのときの精一杯を見せることを怖がらなかったり、一部の人からは非難されそうな想いや趣味を隠すことなく全力で愛してたりする、そんな人たちは皆、都会のエネルギーを吸収し、ますます強い光を放つようになっていくのだ。


私は、本音を尊重してあげることが苦手だった。ここぞというときには後悔しない言動をしてきたけれど、普段は、自分が心底ではどう感じているのかということを、おざなりにしてきたと思う。私が枯渇してしまったのは、本音という源泉を大切にしてあげられなかったからだろう。だって源に蓋をして、何が生まれるというの。



今年は本音で生きる。



何でもかんでも口にする、というわけではないけれどね。せっかく培った大人の処世術もときには用いながら。それもときには思いやりだから。でもね、なるべく本音で、生きていく。

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