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【気まぐれエッセイ】「私は私の道を」沈黙の美学

著名人同士の揉め事やいざこざがネットやテレビで取り上げられたとき、ある特定のパターンにおいて、私は自分がどういう人を信用し、どういう人を好きだと感じるのかを再認識する。

ある特定のパターンとは、一方が自分の言い分や相手を責めるようなことをあらゆるメディアで捲し立てていて、一方はどれだけ騒がれようとその件についてはなるべく触れないようにしている(たまに意地悪な質問をされてもユーモアのある回答でサラッと受け流している)ときだ。

そういうとき私はほとんどの場合、後者に好感を抱く。

人間関係は相互的なものだから、100%どちらか一方が正しくて、もう一方が間違っているなんてことはないはずだ。それぞれに正義や言い分があるだろう。

だからこそ、あくまでも当人同士の問題と捉え(弁護士を挟むなどは別の話だけど)、無関係の人に自分の正しさを主張しようとしない人のほうが、私は信頼できるのだ。

いくら自身は自分が正しいと思っていても、泥棒に入られたり暴漢に襲われたりしたときのように、一方的に被害に遭った場合とはやはり違うのだから。

言いたくなる気持ちは、よく分かるけどね。


だけど、肝に銘じておくべきだ。

安易に、先に被害者ぶったほうの肩を持つ浅はかな人たちを味方につけたところで、そういう人たちは本当の味方じゃないということを。そういう人たちは、些細なことですぐ手の平を返し、何かあればあっさり敵に回るのだから。

黙っていても自分を信じてくれる人たち、また正しかろうと間違っていようと味方でいてくれる(たとえ今回はあなたが悪いよと間違いを指摘してくれたとしても、あくまでも味方という立場でい続けてくれる、対外的には自分を庇ってくれる)人たちこそが、真の味方であり生涯を通じて大切にすべき人たちなのだ。


別にひとり黙ってモヤモヤやイライラを胸の内に仕舞っておこうと言っているわけじゃない。どうにも処理できない感情は、ごく親しい人にだけ吐き出せばいいのだ。その人が絶対に秘密を守ってくれるなら、それは日記に書くのと同じこと。

だから私は、どうにもならない感情を一人で抱えていられないときは、家族や彼氏にだけ聞いてもらう。面と向かって本人に話すか、誰にも話さない(徹底して秘密を守ってくれる身内は別ね)か、どちらかにしたいと、やっぱり私は思うんだよね。

ファンがたくさんいる有名な方々は、説明責任があるだろうし、一般人とは違う面もあるだろう。それでもなるべく必要以上のことは語らず、感情的にならず、起きた事実と自分の考えを冷静に、一度だけ述べるのがかっこいいと思う。

出る番組出る番組でその話をしたり、SNSで相手の悪口(匂わせも含め)を書いたりすれば、その時点でそっちの負けだと思うんだよ。勝ち負けの問題ではないと言われればそうかもしれないけど、少なくとも滑稽ではあるよね。


著名人を例に挙げたけど、身の回りでこのようなことが起きたときも同じだ。仲良くしているグループ内で、AとBが揉めてたとして、もしAだけが私にBの悪口を言ってきてBからは何も聞かされなかったとしたら、私は今後何か相談するときはBに話そうって思う。Aは要注意だな~ってね。もちろん、「〇〇で意見が食い違って揉めちゃったから、今ちょっと気まずくて〜」と簡単に状況を説明してくれるだけならいいんだけどね。その後に悪口が延々と続くようなら、私はその子との今後の付き合い方を変える。


ハラワタが煮えくりかえっているときは、つい冷静さを失い相手のことをこき下ろしたくなるけどね。それでも、そんなときこそ好きな自分でいたいから。私は、追い込まれたとき、自分が不利だと感じるとき、敵が多い、試練が多いと感じるときこそ、信念を、美学を、貫きたいと思うんだ。



ま、なるべくね(笑)








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