夜更けの脳内

映画が嘘である必要があるならば、
踊りはとことんリアルである必要がある。

リアルであるとは、カオスでときどき残忍で、掴めた気がしてもシュワリと溶けてしまう泡のようなものだ。

私の主張はある意味間違っている。
そして、ある意味あっている。
それがどちらも同時に存在している。
それがリアルの正体だ。

「表現する」とは意図していたり、アウトプットの自覚があることを内包する。
表現の域を超えて、意図せず、そうなっている自覚すらなく滲み出てきてしまうもの、それは全ての芸術、そして全ての人の生活に日々現れていて
そこを感じて人は

面白い
とか、
心が冷える
とか、
感動する

と思うのだろう。

なんで「偉い人」は、いちいち言葉を断言するのだろうか。
その瞬間にそれに反する概念を否定する行為なのに。
そのどっちも持っているのが、「偉い言葉」よりもっと本当なんじゃないか?

それを断言することは、逆の概念を否定することとイコールでないのかな。

服が好きだ。
ひとつの概念、正しさ、世界観に囚われていない服装が好きだ。
初めての概念の取り合わせを見て、それが何故か分からないのにしっくりくる時が心地よい。
優しくていつでも正義感いっぱいとか、よくある物語の人物像みたいじゃなくて、もっとリアルなものがその服装の中に全部ある。
ものすごくまっさらで、ものすごく残忍で、だけど中途半端に怠惰で、ケチだったりする。
当たり前の人間臭さを、最も短い時間カウントで感じられる。
香水の方がそうかな?
私にとっては、服には人間が詰まってみえる。

私は、天才で愚かで偉そうでそれを隠そうとする卑しさがあって、自分を棚に置いて人を非難したりする。心震えて涙を流す。卒業式ではいつもあくびをして泣き真似していたけれど。
なるべく人は優しくあってほしいし、憤慨すべきところで怒るべきだと思っている。本音を言うと人と乱闘になりそうなことには、嘘をついて小細工する。自分は本当は優しくないんじゃないかと最近思っている。
人間嘘をつくのが主悪の根源だという言葉を耳にして、それを信じているから、優しくないなら優しくないままでいいかと思っている。
それでも、自分は存在だけで素晴らしいと知っている。
それを図々しいと思わない。
わかりやすく真っ白白に見えるものは、最も多く嘘をついていて罪の意識が強い者の証拠だ。それこそ吐きそうだ。
透明なものとは、俗の中に潜んでいて、決して日常から切り離されていない。
その人自身がその瞬間に俗にいないだけ。
それがリアルだ。

こうして自分が断言している時、それは自分の中に他の選択肢が存在していない時だ。
その瞬間は、自分に不思議と迷いがない。
これはひとつ真理であり、またやはり嘘でもあるんだろう。
嘘ってなにかな。本人にとっては真理であってもどんなものにも別の真理があるならば、
真理は嘘で、嘘も真理だ。

私の踊り。それは嘘。そして本当。
自分でもどこからが嘘か真か分からない。
たぶん全部嘘で、そして本当です。

だからみんな投げやりに、その意味を理解してもいなくても「正しさはないけど、好きかどうかはある」なんていうんだ、私も含めて。
自分で、こねくり回してその答えを出したんだろうか?いつだって私は、人に先に答えをもらっていい言葉だけ記憶して録音機みたいに話す人がいやだ。
私がそれでもある。

やっぱり、それが好きかどうかで決めるしかない。
真っ白無機質は好きじゃないことが多いけど、
ヘビメタもダーク過ぎるロックも好きじゃないんだもの。
毎日聞いていたら、好きになるかもね。
それって洗脳の第一歩だろうか。

日本はその昔、亀の甲羅の割れ方で政治を決めていたいわば、インスピレーション大国だったんだよな。
執拗なまでに感覚を排除した輝かしい歴史は、もう少しで私たちみんなを古代へ揺り戻していくのだろうか。

芸術は無意識と無意識の交歓だ。
創造者の前には、人がいる。

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