黙祷と笑い

笑ってはいけない場で笑いが込み上げてくるのはなぜだろう。私は、小さい頃に亡くなった祖父のお葬式が笑えて仕方がなかった。たしか漫画家の蛭子さんもそんな話をしていたっけ。もしかしたら根っからゲスいのかもしれない。

今はすっかり大人になったので、お葬式で笑いが込み上げることはなくなったが、今という時間軸しかない子どもにとって、お葬式は難解なのだ。幼な子たちには、わざわざ生命の断絶を接続させ、連続性をもたせる儀式の意味を知るよしもない。それは、今年小学1年になった息子(6歳)も例外ではないようである。

息子が学校から帰ってくると、私は息子に「学校はどうだった?」と聞く。すると、「そうだった」とくる。息子が学校でどう過ごしているかわからないから、もっと知りたい。再び「どうだった?」と聞く。すると「そうだった」と返ってくる。

これが我が家のお決まりの挨拶になっているのだが、息子は印象に残った出来事があったときだけ(晩御飯を食べるタイミングや自転車で習い事に送迎するときに)、おもむろに話してくれることがある。どうやら、話の主導権は自分が持ちたいタイプらしい。

先日はこんな話をしてくれた。それは、学校の職員さんが亡くなり(コロナではない)、クラス全員で黙祷をしたときのことだった。私も事前に学年便りで訃報の連絡を受け、各教室で黙祷をする旨を聞いていたので、教室で黙祷が行われることはあらかじめ知っていた。

息子が言うにはこうだ。担任の先生が、職員のご不孝を子どもたちに伝えた。子どもにとっては接点がなかった方のご不幸である。ただ小学1年になれば、死の重みを薄々気がついていたにちがいない。そんな子どもたちに「黙祷をしましょう」と促した。黙祷は子どもたちにとって初めての体験だった。

おそらく先生は子どもたちに黙祷の意味を説明し、「10秒間目をつむって亡くなった方にお祈りしましょう」と説明したのだろう。子どもたちには、その行為自体が新鮮だったようで、「祈る」と聞いて自然に手を合わせる子もいたらしい。

なかには両手でハートを形どり、左胸に置いて独自のスタイルでする子もいたという。また、手を合わせた指先で顎をすりすりしながら「おひげジョリジョリ」と悪ふざけをする子もいた。悪ふざけするのは、決まって男子ばかりだった。

教室は初めて行う集団儀礼によりざわめきだった。先生は「静かに! 10秒ですからね。さあ、祈りますよ」と諭したはずだ。

先生が「1、2」とカウントし始める。子どもたちはみな目をつむり、教室が一気に静まり返った。「3、4」、先生の声が教室中に響く。「5、6、7」、子どもにとって10秒は意外に長い。「8、9」、ここで息子は耐えきれず目を開けてしまったというのだ。正解にいうと、9(きゅう)の“う”を先生が言いかけたときに、目を開けてしまったらしい。息子があたりを見渡すと、「10」の掛け声とともに先生も生徒もみな一斉に目をパチパチと開けた。その光景が「面白かった」と報告してくれたのだ。その話を聞いて、息子がお世話になった方のご不幸を思いやる前に、「面白い」と感じた息子を「面白い」と感じた。

黙祷は子どもたちが初めて行う大芝居だ。みながイメージを共有し、演じることに徹したはずだ。演者である幼な子たちは必死に目を開けないようにしたことだろう。しかし、息子は途中目覚めてしまった。たった一秒間だけだが、息子は演者から観客となり代わったのだ。

息子は観客になったことで、この壮大なお芝居に気がついたのだと思う。そこには、教室が祈りの場と化した空間の変貌もあっただろうし、時間に縛られない自由さもあった。たった一秒間の間が可笑しさを生んだのだ。

とりわけ黙祷は子どもたちが初めて行う集団儀礼だ。最初はふざけていたかもしれないが、相当な緊張感もあったと思う。そこから抜けた息子は弛緩もあって、笑いが込み上げてきたこともあるにちがいない。

黙祷後、息子はすっかりお腹をよじって笑いを堪えていたようである。いやはや不謹慎。息子もさすがに常識を持ち合わせていたようで、声を出さずに自席で悶絶していたらしい。だが、その異変に気づいた後ろの席の女の子が、息子に声をかけたのだ。

「ねぇ、どうしたの?」
「可笑しくて笑いそうになったんだよ」
「どうして?」
「だって、周りを見たら、みんな一斉にパチパチとした(目を開けた)から」

そういって息子は再び笑いを噛み殺した。たぶん言われた女の子はキョトンとしたにちがいない。悲劇が喜劇になるのは往々にしてあるけれど、まさか息子の初の黙祷で耳にするとは……。一歩間違えれば健全な笑いから魔の笑いに取って代わってしまうので注意は必要だが、まだ息子は幼い。あともう少し野放しにしておくか。

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