リアリティの追求(八月の光)
POPEYEという雑誌の特別編集版である「本と映画のはなし。」を購入当時から何度も読み返している。
取材対象となった60人のクリエイターによる本と映画の紹介。
それぞれの持つ哲学や世界観が直球で投げられてきて、とても面白く感じるのだ。
その中でも、ミュージシャンの七尾旅人氏による「八月の光」の紹介が印象に残った。
「『八月の光』はある若い妊婦が雲隠れしてしまった子供の父親を探して旅に出るんですけど・・・(省略)あるシーンで、前方から馬車がやってくる、妊婦の目には騾馬の歩みがゆっくりと緩慢な動作に見えた、ということを書いているんですけど、その何とも言えない生々しい感覚の描写がすごくて」p38
僕はこの「八月の光」を読んだわけでも知っているわけでもないけれど、上記の状況設定を理解した上でなら、七尾さんの話を読んだだけでグッとくる何かを感じたような気になる。
それがなぜなのか、考えた。
◆妊婦の目を通して見た騾馬の歩みの描写がどうして、読者の脳に生々しくしく映るのか?
↓
普段なら、例えば楽しいお出かけの時に、騾馬の歩みがどうのこうのって注目なんかしないよね。
↓
そんなことするのは、かなり物思いに耽っているような時だよね。
ここまでを自己の経験と重ね合わせることができれば、たとえそれが何となくであったとしても、このワンシーンを生きたものとして感じることができるんじゃないか。
じゃあ彼女は騾馬を見て、どんなことを考えていたのだろうか?
◆人や物を引いて歩く、重労働させられる騾馬(と私)
◆未来なんてない、栄光もない、ただ生きて、老いてゆく騾馬(と私)
◆速すぎず、遅すぎず、主人に怒られない程度に仕事をする騾馬(と私)
◆生き続けようが、死のうが、他に代わりはいくらでもいる騾馬(と私)
◆口はあっても想いを伝えることはできない騾馬(と私)
前方からやってくる騾馬の馬車とすれ違う時というのは、電車のように一瞬とまではいかないが、そんな遅いものでもないだろう。
だからこそ、それが”ゆっくりと緩慢な動作に見えた”ということは、この騾馬の姿を見て上のようなことを考えていたから、と想像するのはそう外れてないと思う。
けっこう多くの人にとって、こうした経験はあるんじゃないか。
客観的に見える動作は一瞬のことでも、その一瞬に”強い想い”が込められた場合、感覚として、それがスローモーションのように見える。
例えば、スポーツの試合で、勝負の行方を決めてしまうような瞬間。
甲子園の決勝戦。(ベタすぎ)
9回裏の逆転ホームラン。
投球から打球までは、ほんの一瞬。
けれども、そこに強い想いを乗せた人には、1分にも1時間にも感じられる。
そんなことって、あるでしょう?
話を若い妊婦と騾馬に戻すと、個人的な体験として、自分の存在や将来に疑問を感じたり否定したことがある、それもけっこう深刻に、したことのある人にとっては、このシーンにリアリティを感じるのだと思う。
僕はまず、自分の作品にというよりは、自分の生の人生にリアリティをもっと感じたい。感じて生きていきたいなあ。
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