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目隠しをして生きている

ビジネスアイデアを考えるとき、はて、自分が興味を持ったその分野の登場人物はどういう悩みや課題を持っているのだろうと考えることになる。

なんだろなーなんだろなー、と外野から眺めていても、彼らの本当の悩みは見えてこない。
見えるはずがないのだ。
なぜなら、本当の悩みは隠されているから。
なぜなら、無意識にでも隠さなければ、前向きに生きていくことが難しいから。
それらを直視していられるほど、人間の心は強くできていない。多分。

もっとこうしたい、ああしたい、こうだったらいい、あんな風になりたい、これはいやだ、あれもいやだ、こうだからうちの会社はダメなんだ、色々ある。
その中で、
まあそんなこと言ってもしゃーないし、人生も社会もそんなもんだろ?
と割り切って考えるのが大人(???)であり、実際そうしないとやり切れないことが多いのだろう。
だから多くの人が目隠しをして生きている。
現状をあたかも、”これが当たり前で、自然な景色なんだ”と催眠術のように、自分をコントロールすること。
言うなれば処世術のようなものになっている。
この当たり前を受け入れて、ここを起点にして、じゃあ自分はどうしていくか、ということが大事だと思うようになる。
(じゃあ自分は、と考えられる人は多くない)

けれども、僕自身はこの目隠しが嫌いだ。
人生そんなもんだろ?なんて割り切りをしてしまったら、その前と後とで自分の存在意義がまるきり変わってくる。
僕にとって、「後の世界」は死んだも同然。
浮遊して、グラデーションの変遷を辿るように、薄くなり、消えていく。
その流れに乗ってしまうことになる。


仮定することは大事だ。そしてその上で未来を夢見る。
「今、現状をこういう風に仮定しましょう。
でも、こんな現状は嫌ですよね?
だから、こういう未来を描きます。
到達するために、3つの具体的なポイントがあります。
まずは1つ目から一緒に取り組んでいきましょう」
こういう話をしたい。


当たり前のことなんて一つもないんじゃないか。
それが現時点での数年、数世紀においてそうだったということしかないんじゃないか。

走行中の車にはねられたら、怪我をする。場合によっては死ぬ。

これって当たり前ですか?
今は、一時的な理屈として理解しておくべき事実ではあるけれど、当たり前なことじゃあないんじゃないか。
自動運転車が出てきたように、人に怪我をさせない車だって出てくるかもしれない。
その時、今の当たり前は破壊される。

社会は課題だらけ。
それを一つずつ、当たり前として処理することで凌いでいるのが現状。
まあ、どんなに時が進んでも課題の総量は変わらないかもしれない。
だからもし僕が100年後に生まれたとしても、世の中は課題だらけだと思うだろう。
けれど、社会を微妙にでもアップデートしていくことはできるし、それができるのは課題に対して向き合っている人だけだ。
僕はこの、向き合う側の人間でいたいし、これを諦めたら、水をかけられた焚き火の後のように、もう終わったものになる、自分自身そうなると思っている。
乾いたらまた使えるかもしれないけれど、そんなの待ってる間に死ぬだろうな。
weekly ochiaiを見ていて、ふと、こんなことを考えた。

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