メルマガ『東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─』第320号「遺泄精屬心」(内景篇・精)
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◇ 東医宝鑑(東醫寶鑑)とういほうかん─古典から東洋医学を学ぶ─ ◆
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第320号
○ 「遺泄精屬心」(内景篇・精)
◆ 原文
◆ 断句
◆ 読み下し
◆ 現代語訳
◆ 解説
◆ 編集後記
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こんにちは。「遺泄精屬心」を読みます。
◆原文◆(原本の文字組みのままを再現・ただし原本は縦組み
・ページ数は底本の影印本のページ数)
(「遺泄精屬心」p83 上段・内景篇・精)
遺泄精屬心
丹溪曰主閉藏者腎也司疏泄者肝也二
藏皆有相火而其系上屬於心心君火也
爲物所感則易動心動則相火亦動動則精自走
相火翕然而起雖不交會亦暗流而疏泄矣所以
聖人只是敎人收心養心其旨微矣
▼断句▼(原文に句読点を挿入、改行は任意)
遺泄精屬心
丹溪曰、主閉藏者、腎也、司疏泄者、肝也。
二藏皆有相火、而其系上屬於心。心君火也。
爲物所感則易動、心動則相火亦動、動則精自走、
相火翕然而起、雖不交會、亦暗流而疏泄矣。
所以聖人只是敎人收心養心、其旨微矣。
●語法・語釈●(主要な、または難解な語句の用法・意味)
▲訓読▲(読み下し)
精(せい)を遺泄(いせつ)するは心(しん)に屬(ぞく)す
丹溪(たんけい)曰(いは)く、閉藏(へいぞう)を
主(つかさど)る者(もの)は、腎(じん)なり、
疏泄(そせつ)を司(つかさど)る者(もの)は、肝(かん)なり。
二藏(にぞう)皆(み)な相火(そうか)有(あ)り、
而(しこう)して其(そ)の系(けい)
上(か)み心(しん)に屬(ぞく)す。
心(しん)は君火(くんか)なり。
物(もの)の爲(た)めに感(かん)ぜ所(ら)れて
則(すなは)ち動(うご)き易(やす)し、
心(しん)動(うご)くときは則(すなは)ち
相火(そうか)も亦(ま)た動(うご)く、
動(うごく)ときは則(すなは)ち
精(せい)自(をのづか)ら走(はし)り、
相火(そうか)翕然(きゅうぜん)として起(おこ)るときは、
交會(こうえ)せずと雖(いへど)も、
亦(ま)た暗(あん)に流(ながれ)て疏泄(そせつ)す。
聖人(せいじん)只(た)だ是(こ)れ敎人(ひと)をして
心(しん)を收(をさめ)て心(しん)を
養(やしな)はしむる所以(ゆへん)、
其(その)旨(むね)微(び)なり。
■現代語訳■
精の遺泄は心(しん)に属する
丹溪が説くには、閉蔵を主る臓腑は腎であり、
疏泄を司る臓腑は肝である。
これら二つの臓には共に相火があるが、その流通は
上部で心に連系する。
心は君火であり、刺激に感応して動きやすい。
心が動けば相火もまた動く。相火が動けば精は自ずから流れだす。
相火が一斉に熾れば、交接せずとも図らず流れて疏泄してしまう。
聖人がただ人に心を収め、心を養うことを説く所以であり、
その趣旨は精妙なのである。
★ 解説 ★
「補精以味」の次の項目「遺泄精屬心」です。前項まではどちらかというと実用的な話題が説かれていましたが、ここで精が漏れる機序が語られています。
ここまで、例えば「煉精有訣」の項目で精を煉る方法として腎が重視されていたように、また例えば現在はあまり言わないと思いますが、いわゆる性交のしすぎを一般的にも「腎虚」と言うように、精が漏れると言ったら腎の問題と考えられる節があると思いますが、ここではそうではなく、根本として心の問題なんだ、と説き、その実際の機序が説かれていることになります。
例によって現代語訳が難しい部分が多く、元の熟語のままにしているところ、また訳語を充てているところとが混在しており、やはり原文からの吟味をお願いしたいところで、そうすると翻訳の多少の工夫もよりお分かりいただけるのではと思います。
そしてなんとなく実用から離れた理論的なことが説かれているようで、最後まで読むとそうではなく、しっかりと実用事項としてこの項目が説かれていることも読み取れますよね。
先行訳は、まずこの項目の表題を「精の遺泄」としています。
ここでの最重要テーマ、文字通り肝心要の「心」が表題に無いのです。
(肝腎要とも言いますが、これら全てがこの項目に登場しますね)
それだけポイントがずれている、または曖昧な項目名になってしまっています。
さらに、これだけある文章をたったこのように訳しています。
腎は閉臓を防ぎ、肝は踈泄を防ぐ。
たったこれだけです。そして内容はと言えば、本文が説いているところと全く逆のことを言っています。
本文では「腎は閉蔵を主る」、つまり腎が閉じる・蔵する(おさめる・たくわえる・かくす)という機能を担っていると言っており、先行訳は蔵するの蔵を臓腑の臓としてしまっているだけでなく、真逆の意味の「防ぐ」としてしまっているのです。
そして同様に原文では「肝は疎泄を司る」と言っている、つまり疎(とおる・すすぎ去る・のぞく)、泄(もる・もれる・もらす・のぞく・さる)という機能を担っていると言っているのに、先行訳は踈(とおる、などの意味では「踈」ではなく「疎」を使うようで、ここでも誤り)の誤りのみならず、腎同様に「防ぐ」と意味を正反対に解釈してしまっているのです。
さらに、腎と肝の機能は「閉藏」貯めること、つまり「閉」の機能と、「疎泄」流れさすこと、つまり「開」の機能とが対になっているのですね。
そしてその二つの機能がどちらも「心(しん)」に元があり、心を収め、心を養うことが精を養う眼目なんだよ、というのがこの文の趣旨なのです。
それが先行訳ではどちらも「防ぐ」と同じ機能になってしまっている点もいただけません。そして本文にも「心」という文字が一回も登場せず、項目名同様主テーマが全くわからなくなってしまっています。
省略と誤訳ここに極まれり、という感じですが、そもそもこの「腎主閉藏」「肝主疏泄」というテーマは東洋医学の基礎的な理論を構築する根幹のテーマのひとつであり、先行訳の訳者さんはこの点すら理解のないまま翻訳をしていたことに、この部分の訳から露呈してしまっていることになります。
いつも書くことですが、先行訳をお持ちの方は必ず原文を確認の上での利用を強くお勧めする次第です。
◆ 編集後記
「遺泄精屬心」に入りました。次号でこの項目を読み終わる予定です。
解説では常に先行訳の誤り、省略を書いていますが、このメルマガでは、省略に関しては、原文も記載し、訳もできる限りの逐語訳を心がけているので皆無に近いはずですが、誤りに関しては、私自身が上で先行訳に対して評したような、基礎的な理解もないままに訳してしまっている部分があるかもしれません。
それほど東医宝鑑の扱う範囲が幅広いということでもありますが、訳す以上それは言い訳にしかならず、自身の足元を見つめながら、常に正しい解釈、翻訳でのお届けを期すべく、先行訳を見て改めて襟を正す思いです。
今でもネット上には残っているかもしれませんが、かつてある東洋医学の古典の大作の翻訳書を出版なさった方が、訳語の不備への指摘に対して、その方のホームページ上で「私は古典が専門ではないので」といったコメントをなさっているのを読んだことがあります。
読者さまはこのコメント、どう思われますか?
私は「お金を取る書籍の翻訳を引き受けるのに、「専門ではない」は言い訳にしかすぎない。専門でないと思うなら初めから引き受けないのが誠実な態度で、引き受けた以上は専門でないなどという言い訳はせず、プロとして最善の訳を提供すべく努力し、批判には、相手が正しいと思うなら素直に認め、もしくは相手が誤りと思うなら正々堂々と反論すべきだ」と思いました。
世上には立派な専門書(しかも高価)の翻訳者さんでもこのような浅い意識で翻訳されていることに驚くとともに、私自身はたとえ無料、無記名のメルマガでもこんな言い訳はしまいと、良い教訓になった“事件”でもありました。
メルマガの訳や解説に誤りを認められた方は、ぜひともご意見をお寄せくだされば幸いです。掲載へのご同意を得た上で、誤りを訂正させていただく所存です。
(2019.06.09.第320号)
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