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宇津保物語を読む9 内侍のかみ#19
俊蔭の娘尚侍となる 上達部たち署名詠歌
(朱雀)「いでや、何をかは今宵の御禄にはすベからむ。さらに、この遊ばす手どもに合ふべき禄こそ思ほえね。涼、仲忠が紀伊国の九日の禄を、まだ行はぬかな。府の大将を、八月の頃ほひになりなば、禄遅しと責め申せ。さて今宵の禄をばいかがすべき。涼、仲忠はさてあり、おもとにはみづからをやは得たまはぬ。中将の朝臣、紀伊国の禄には、娘をこそは得たれ」
とて、御前なる日給の簡に、尚侍になすよし書かせたまひて、それが上にかくなむ。
(朱雀)「目の前の枝より出づる風の音は
離れにしものも思ほゆるかな
これがあはれなればなむ」と書きつけさせたまひて、上達部たちの御中に、
朱雀「人々、これに名して下されよ」とて賜びつ。
左のおとど、見たまひて、いとおぼつかなし、誰ならむ、と思せど、御手づからのことなれば、名したまふ。「左大臣従二位源朝臣季明」と書きつけて、その傍らに、
(季明)「風の音は誰もあはれに聞こゆれど
いづれの枝と知らずもあるかな
おぼつかなき宣旨になむ」と書きつけて、右のおとどに奉りたまへり。見たまひて、あやしく、ただ今、こともなき琴の声出だして、尚侍になるべき人、絶えてなし。琴弾きける人の族にこそはあめれ、と思ほし寄りて、名したまふ。「右大臣従二位藤原朝臣忠雅」と書きつけて、かくなむ。
(忠雅)武隈のはなはの松は親も子も
ならべて秋の風は吹かなむ
と書きつけて、左大将に奉りたまふ。左大将、見たまひて、
正頼「これかれ参りて。これはなでふことぞ。さらば」とて聞こえたまふ。
右のおとど、(忠雅)「いさや、さらばかくなむ思ひたまへ寄りたる。いかにさは思さずや」。
正頼「いで、さも知らずかし。さこそいへ、いたく思ほし寄りたるかな」とて、名したまふ。「大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使源朝臣正頼」と書きつけて、
(正頼)はなはより吹き来る風の寒ければ
むベも小松は涼しかりけり
と書きつけて、右大将に奉りたまふ。見たまひて、
(兼雅)「あやし。こはなでふことどもぞ。兼雅は心得ずや」とのたまふ。
上、(朱雀)「けしう。そこは心得たまふべきことにもあらずかし。おぼつかなながら御名をはや」。
右大将、(兼雅)「蜻蛉こそこれには奉るベかめれ。おぼつかなくては」とのたまふ。
上、(朱雀)「おぼめくより、はかなくてやはありけむ。いで、な知らせそや」などのたまふ。
「従三位守大納言兼行右近衛大将東宮大夫藤原朝臣兼雅」と書きて、
(兼雅)ふけまさる松より出づる風なれや
殊なるなみの涙落つるは
と書きつけたまひて、民部卿に奉りたまふ。「従三位権大納言兼民部卿源朝臣実正」と書きて、
(実正)年経れど枝もうつらぬ高砂は
となりの松の風や越えまし
と書きて、左衛門督に奉りたまふ。それ名したまふ。「中納言従三位兼左衛門督藤原朝臣正仲」と書きつけたまふ。
(正仲)いにしへの松は枯れにし住の江の
むかしの風は忘れざりけり
とて、平中納言に奉りたまふ。「中納言従三位平朝臣正明」
と書きて、
(正明)聞く人はあねはの松の風なれや
むかしの声を思ひ出づるは
とて、宮の大夫に奉りたまふ。「中納言中宮大夫従三位源朝臣文正」と書きつけてなど、心々に御名して下りぬ。かくて、この歌、
(文正)松風のむかしの声に聞こゆるは
八十島よりや吹き伝ふらむ
訳
朱雀帝「さてさて、何を今宵の禄として与えようか。まったくこの演奏に見合うだけの禄を思いつかないよ。そういえば涼と仲忠の紀伊国(吹上)での9月9日の禄(=左大将の娘のあて宮さま宮を与えるとの約束)をまだ果たしていなかったなあ。左大将に8月の頃になったら『禄を早く』と催促するがよい。さてそれにしても今宵の禄はいかがいたそう。涼、仲忠はまあそれとして、ならば、そなたには私自身を差し上げようか。仲忠中将には紀伊国の禄として私の娘(=女一宮)を与えるのだから。」
とおっしゃって御前にある女官札に、尚侍に任命する由をお書きになり、このような歌をお詠みになる。
「目の前の枝から吹いてくる風の音は
遠く過ぎ去ったものも思い出させることだ。
(そなたの演奏は父親譲りよのう)
琴の音に心を打たれたのだ」
とお書きになって、上達部たちへ「みなの者、これに署名して回せ。」とお与えになる。
左大臣はそれをご覧になり、「はてさて、誰のことだ」とお思いになるが、帝直々のことであるので署名する。
「左大臣従二位源朝臣季明」と書きつけその傍らに
風の音は誰もが身にしみて感じるけれど
どの枝から吹いてきたのかわかりません
(琴の奏者とはどなたでしょう?)
なんとも腑に落ちない宣旨でございます。」
と書きつけて、右大臣へと差し上げる。
右大臣もそれをご覧になり「不審なことよ。今日これほどの琴の演奏をし、尚侍に任ぜられるような人などどこにいよう。琴の名手の一族のものだとしたら、もしかして仲忠の母か?いや間違いない」と思いながら署名をする。
「右大臣従二位藤原朝臣忠雅」と書きつけた後に
武隈の塙の松を吹く秋風は
親子揃って吹いてほしいものよ
(仲忠親子の競演が聞きたいものだ)
と書き付けて左大将に差し上げる
左大将はご覧になり
「いろいろと書かれているが、右大臣の歌はどういう意味であろう?もしかして、そういうこと?!」と思い、右大臣にお尋ねになる。
右大臣「いやね、琴の演奏を聴いてふと思いついたのだよ。そうは思いませんか。」
左大将「いやまったく思いもしなかった。それにしてもよく気がつきましたな。」
といいつつ署名をなさる。
「大納言正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使源朝臣正頼」
と書きつけて
塙より吹いてくる風が寒いので
なるほど小松の木陰が涼しかったのですね
(小松=仲忠の琴がすばらしいのは、母の影響なのですね)
と書き付けて右大将に差し上げる。
右大将はご覧になり
「なんじゃこれは。どういうことかさっぱりわからん。」
とおっしゃる。
帝「気にするな。おまえがとやかく言うことではない。分からんでいいからさっさと署名せよ。」
右大将「『おぼつかな夢かうつつか蜻蛉の(ほのめくよりもはかなかりしか)』とでも書けばよいのですか。まったく事情が分かりません。」
帝「『おぼつかない』というよりも『はかなくて』の方がぴったりするかな。まあとにかく詮索するな。」
右大将は渋々「従三位守大納言兼行右近衛大将東宮大夫藤原朝臣兼雅」と書いて
老齢な松から吹く風であろうか
格別なことがないのに涙があふれ出ることよ
(きっと琴の奏者は老練な方に違いない)
と書きつけて民部卿に差し上げる
「従三位権大納言兼民部卿源朝臣実正」と書いて
何年経っても枝も変わらない高砂の松は
隣の松の風も越えることはないでしょう
(高砂の松のような右大将夫婦の関係は、帝の愛情に増さるでしょう)
と書いて左衛門の督に差し上げる
左衛門の督も署名をし「中納言従三位兼左衛門督藤原朝臣正仲」と書きつける
古の松は枯れてしまった住之江も
昔の風は忘れないのだ
(いにしえの松=俊蔭がなくなってもその奏法は子孫たちに受け継がれるのです)
と書いて平中納言に差し上げる
「中納言従三位平朝臣正明」と書いて
聞いているのは姉歯の松の風であろうか
昔の声が思い出される
(忘れ去られた俊蔭の奏法が甦る)
と書いて宮の大夫に差し上げる
大夫は「中納言中宮大夫従三位源朝臣文正」と書き付け、以下それぞれ署名を下された。
その文正の歌
松風が昔の声のように聞こえるのは
八十島から吹いてくるからでしょうか
右大臣の気づきは左大将はじめその場の人々にこっそり共有されていったのだろう。兼雅以外の歌は、琴の奏者が俊蔭の娘であることを前提として詠まれている。鈍感な右大将兼雅だけが蚊帳の外。
兼雅も署名してしまい、帝と俊蔭の娘の関係は夫公認となってしまった。(ご愁傷様)