見出し画像

弱さが持つ可能性『〈弱いロボット〉の思考』から

前回の記事で紹介した岩内章太郎の『〈私〉を取り戻す哲学』では、後半部分で岡田美智男の〈弱いロボット〉が紹介されていた。

そこで気になって彼の書籍を2つ読んだ。

『<弱いロボット>の思考』の方が、出版年としては新しい。重複している部分もあるが、それぞれの本で、ロボットの開発の過程が詳しく描写されていて面白い。テレビでも取り上げられたようだ。

筆者は<ASIMO>の歩行スタンスに注目し、<静歩行>から<動歩行>へという考察をしている。簡単に言えば、重心を確保したまま、おそるおそる足を前に出すのが<静歩行>、自分の重心を前に倒しながら、地面の反発をも生かして前に進むのが<動歩行>だ。<ASIMO>は<動歩行>をすることで、従来のロボットの動きとは異なるワクワク感を与えたという。

この地面からの<支え>を予定して一歩を繰りだすとき、ある種の投機的な行為がなされていることに注意したい。わずかだけれどドキドキした感じをともなうのである。この「どうなってしまうか分からないけれど……」という感覚をともないながら、他に委ねるような振る舞いのことを、ここでは<投機的な振る舞い(entrusting behavior)>と呼び、これを支えるような地面のような働きを<グラウンディング(grounding)>と呼ぶことにしたい。

岡田 美智男『弱いロボットの思考』(講談社新書、2017年)、129頁

これはランニングの動作などにまさに当てはまり、重心を前に崩し続けることで、結果的に転ばずに進むことができる。地面が消失して奈落に落ちることなどない。地面への信頼があるからこそ、私たちは何も考えず、次の一歩を繰りだし続けることができる。

筆者は、このグラウンディングの対象を、地面から<他者>へ拡張する。地面との違いは、相手がこちらからの呼びかけに応答してくれるかどうかは「賭け」であるということだ。こちらの挨拶に相手は気付いてくれるか、それとも知らんぷりして通り過ぎてしまうのか。とてもドキドキする。猫に話しかけて、応えてくれる時の嬉しさは、スマホの音声入力機能では代替できない。完璧に応答してくれる機械には、私たちは親近感を覚えにくいのではないだろうか。

一人で居るととても自由でいいのだけれど、その抱えきれない可能性につかれることもある。なにをしていてもいいのだけれど、それを一つに絞り切れない……。こうしたときには、ほどよく制約しあう相手が必要なのだろう。一緒に居るというのは、お互いのなかで膨らんだ自由度を減じあう作業でもある。相手に半ば委ねながら、その判断の責任を担わせつつ、こちらでも相手の行動の責任の一端を担ってあげる。これは<並ぶ関係>でのグラウンディングとも呼べるものだろう。

前掲書、246頁

以前にNHKでAIについての番組を見た。

AIを知ることは、結局人間について知ることである、といったようなことがしばしば言及されていたような気がする。『<弱いロボット>の思考』も、ロボットのことを論じているようで、結局は人間とは何か、コミュニケーションとは何か、といったことが終着点になる。この本を読み終わるころには、人間について考えさせられるだけでなく、人間の「隣」にロボットがいる、そうした光景が想像されるようになる。そこにいるのが、なぜ<強いロボット>ではなく<弱いロボット>なのか。詳しくは本書を読んでほしいが、弱いからこそ他とのつながりが生まれるというのが、重要なポイントなのだろう。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集