日本の中高生へのお金の教育を考える③
続きです。前回記事はこちら。
前回は、ここ数10年で世界で重要性が叫ばれている3つの教育、STEAM教育、英語教育、ファイナンス教育について、社会環境の変化を合わせて記しました。
さて、お金の教育として中高生に何を教えるのか。。。そろそろ具体的に言ってよ!という読者もいるかと思いますが、それを考えるのはまだ早いです(笑)。もう少し、その根本を考えていきたいと思います。
・ 管理する教育 VS 管理しない教育
・ シグナリング仮設 vs 人的資本仮説
・ パッシブラーニング vs アクティブラーニング
この軸の立ち位置を理解しておかないと、そもそもの教え方や教えるべきことが全く変わってくるのです。
・ 管理する教育 VS 管理しない教育
管理する教育は、つまるところ「戦いに勝利するための教育」「国家のための教育」と私は読み変えています。管理教育の最終ゴールはなんでしょうか。中国の科挙のような難しいテストを突破して皇帝に奉仕すること、19世紀からの富国強兵思想で強力な国民国家を作り戦争に勝つこと、でしょう。
勝つための最短ルートを効率よく行う目的に対して、「検定教科書の存在」、「塾や予備校の存在」、「順位付け・報酬と罰」などが手段としてとられます。そして優秀な官僚、兵隊、企業戦士、職業専門家を大量に量産していきます。
これの反対、管理しない教育は、「個人の幸せのための教育」「社会の主権者としての教育」と言い換えられるでしょう。教育の最終ゴールは、「個人と社会の幸せ」や「平和でサステイナブルな世の中」、といったところです。
誰かに仕えて奉仕する前提はないので、主体性や当事者性を大切にします。主体性とは自分の好き嫌いがはっきり分かること、幸せを他人に決めてもらう必要がないことです。当事者性とは、自分の周りのことを自分ゴトとして考えられる、子供同士や学校や社会の問題は自分の力で解決できるという自信です。
二つを比較すると、後者はやや理想主義的な話に聞こえますね。弱肉強食は自然の摂理であり、勝利の先にしか個人と国家の幸せは存在しない、とも思えます。運動会では一着を決めるべきで、中国の公立小学校のように生徒を成績順で前から並べるのも正当化されるべきでしょう。昭和の教育はまさに管理教育です。そして報酬や表彰で組織をコントロールする方法は、学校・会社・国際政治で多用される管理手法です。
一方で、人の力や人類の人口が科学技術の進歩により高まり、個人や国家が勝利の先の幸せを追求すると、地球全体としてかなりマズイことが起きることが明らかになってきました。核戦争が始まると、どちらの国も立ち直れないぐらいの廃墟と化すでしょう。公害や温暖化ガスを垂れ流すと、世界中で環境被害が起きます。これは人類の力が弱かった18世紀以前にはそれほど意識されなくても良かった事なのだと思います。
このような変化により、自分や自国の勝利だけを追求するのは社会悪であることも、子供達にも教えることが大切になってきました。特にリーダーとなる人は利他的な思考が求められる訳です。分かり易く言うと、SDGsをしっかり教育しましょう、ですかね。そのフラグを立てるため、幼少期からボランティアの実体験を大量に持つべきだという思想になっていきます。
では、管理する教育としない教育のどちらが正しいのか?答えは以下です。
「その答えのないバランスを考え続けることこそが、教育である」
卑怯ですが、真実だと思っています。ただし、歴史的に世界の潮流は、管理教育から主権者教育に移りつつあるので、僕自身もそうですがアジアで強めの管理教育の洗脳を受けた人は、それを解くプロセスは自己成長に繋がると思います。