いつか泣かれて星になってく
涙を流せるのは愛情を注がれたから?
生きるのを辞めたいと思うとき、自分が生温い泥の中にいる気分になる。
凍えるほど冷たいわけでも焼け付くような熱さでもなく、心地いい温かさでもない。
一番気持ち悪い生温さ。
「生かされている」という気持ち悪さ。
自分の意思で道を選んで歩きたいのに、その前提の生すら望んで選択したものでは無いのかもしれない。
自分で選択した気になっているだけで、環境に影響され元々仕組まれていたものかもしれない。
未来はいつも見えないし自分の中にもない。
必死に生きていきたいのにどこか安心しきって、その息苦しさや気持ち悪さも受け入れて慣れてしまう。
いっそ耐えきれないほど苦しい方が、自分が輝けることを知っている。
追い込まれた方が美しい生を生み出せることを知ってしまっている。
だから楽をしているような自分が許せない。
楽をして輝きたいとうだうだしている自分が嫌い。
生きることは、ひとつずつ手放していくこと
生きる喜びも快感も全部既に手放してしまったように感じる。
かろうじて愛情はもっているが。
愛情を知らずに生きてきた人はいないけど、愛情に気付けずに生きてきた人は沢山いる。
気がつけなかったのはその人が悪いんじゃなくて、不幸や不運が重なった結果だろう。
そこにあるものに気がついただけで、もっている と言い切ってしまうのもまたどこか傲慢に見える。
自分が無知で非力で、なのに傲慢に生命を食い散らかしていることも全部認識はしている。
わかってはいても、まだなにも変わっていない。
なんにも、変われていないよ私は。
まだ産んでくれたことや生きていることに感謝はできないままだけど、いつか心の底から感動できる日が来るのだろうか。
そこまで私自身の足でたどり着くことはできるのだろうか。
抱えているうつわも小さいし、熱を帯びた種もみえない。
全部が燻っているだけだ。
燃え尽きることもなく灰になりきることはえできずにいる。