誰かと競うためではなく、見せびらかすためでもなく
空虚な心にストンと響いた言葉。
誰かと競うためではなく、
見せびらかすためでもなく、
今の時代、当人にその気がなくても、誰かと競う気配、見せびらかそうとする欲、そんなものを感じさせる材料がゴロゴロある。
一般人が(この「一般人」という言い方、有名人の結婚報告などによく使われるけれど、ちょっと嫌な響き)、どうしてそこまでアピールするの?と理解できないぐらい、自撮り全開で、食べたもの、買ったもの、行った場所、住んでいる部屋、諸々をキラキラと輝かせて公開する。
ほんと、何のためなんだろう?
「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」なんていうけれど、六十を過ぎても、自分が何をどうして、この先どうしたいのかわからず迷子になっている。
このままでいいの?
このまま何もしなくていいの?
でも、何かするって何?
考えれば考えるほど、過ぎてきた時の長さと残された時間の短さに焦るばかり。
そんな時に目にした『春秋』の言葉。
もしかしたら、この焦りは、無意識に、「誰かと競うため」、わかりやすく言うなら「見せびらかすため」に生じているのではないか?
私はこんなことをしてこんなふうに生きてきましたよ!と。
でも待って。
それが私の望みだろうか?
違う。
誰とも競わなくていい。
見せびらかすなんてむしろ嫌。
私は私のままでいい。そのままでいたい。
『不適切にもほどがある』の中で、自分の運命を知ってしまった小川に、サカエさんが言う。
「今考えても、その時考えてもたいして変わらないなら、今は、日々を楽しく、好きなように生きたらどうだろう」
結局、それしかない。
小川曰く、
「どうなるかわかってる人生なんて、やる意味あるのか?」
現実には、「どうなるかわかってる人生」なんてないから、わからないなりに、見えないゴールに向かって歩き続ける。
どうなるかわからない人生は怖いけれど、どうなるかわからない人生だからこそ、生きる意味がある。
「生きる意味がある」というのは、生きて何事かをすることを求めるのではなく、ただ生きることそのものに意味があるという解釈。
だから、何をしなくても、何者にもならなくても、淡々と生きる。
それだけでいい。
「何もしない」といっても、本当に何もしなければ食べられないし、食べられなければ生きられないのだから、どんな人でも、生きている以上、何かしらを為し続けているはずなのだ。
ただ自分ひとりを満たすもの
改めて、自分とじっくり対話したいと思う三月の入口。
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