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迷いを生み出す「モノごとの意味」なんて、絶対要らない。

何かを決めるとき、
それって何か意味があること?
って考えることがあるけど、
全てのことに意味があるわけじゃない。

また、何かをやめるときにも、
それじゃこれまでやってきた意味がなくなる、って思って、
やめるのをやめてしまうこともあるけど、
これまでのことに全く意味がなくなるわけじゃない。

むしろ意味があるなしに縛られる思考にこそ、
意味がない。

だって、これまでの自分に違和感を感じているのに、
これまでのことに無理な意味づけをして、
ずっとこのまま続けて行くなんて、残念すぎる。
また、やりたいことがあるのに、
それに意味がないと動けないなんて、
それも勿体無い。

要するに、意味だなんて、
勿体づけて言っているけど、
誰かに対しての言い訳の言い訳探しているのだ。

もちろん、
「意味」ある理由もある。
何かを目指して頑張ってきたのなら、
何かを目指してきたことが意味だろう。

わたしの場合、
心理学を文学に活かそうと、
放送大学で心理学を学んできた。
また、文学的視点で、
心の問題にアプローチしたいと、
漢字117心理リーディングを考案した。

しかし、放送大学では、
心理専門職になるのは難しい。
それでも心理専門職を目指さないと、
大学で学んだ意味がないと思ってしまっている。

また、漢字117心理リーディングは、
尺度やリーディング基準を言語化することが難しい。
そもそも尺度や基準はわたしの中にしかない。
そんな素人リーディングに意味があるのだろうか。

また、note にこんなことを書く意味があるのだろうか、
そんな考えも湧き出てくる。

意味のありなしを考えてしまうと、
思考の範囲は狭くなる。
行動に制限がかかる。
「ねば」や「ベき」も顔を出す。

迷いを生みだす「モノごとの意味」なんて、
絶対要らない。


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