教え方それぞれ【意識の焦点を合わせる=周りを見る】
あくまでも
その時その人にあった教え方の一例
として紹介していきます。
誰でもがいつでも一発でわかる教え方ではありません。
意識のフォーカスがどこに合うか
人によって違いがあります。
そのフォーカスの合ったところにより状況の見立てが変わり、人に対しての気持ちも変わってしまいます。
例えば、
自分の乗っている車のブレーキが故障し、車が止まらなくなった。
それに気づいた周囲の人が協力して、歩行者に呼びかけたり、警察を呼んだり、自らの車を犠牲にしたりして車を止めた。
幸い、1人も怪我人や死者を出すことなく事態は収束した。
警察の人や周りの人には注意されたり、怒られたりした。
この出来事を
車が止まったところから意識がフォーカスする
とどうなるでしょうか。
車を止めた。
幸い、1人も怪我人や死者を出すことなく事態は収束した。
警察の人や周りの人には注意されたり、怒られたりした。
こんな感じです。
車を止めただけで、怪我人も死者も出していないのに怒られたような感じ
になり、
なんだかとっても理不尽に怒られてる
ように感じてしまいます。
なぜそんな風になるのか。
それは、
周りが見えているかいないか
ということなんじゃないかなと思います。
じゃあ、どこを見ていると、そんな受け取り方になるのか。
それは
自分だけを見ている
んだと思います。
自分の乗っている車のブレーキが故障し、車が止まらなくなった。
それに気づいた周囲の人が協力して、歩行者に呼びかけたり、警察を呼んだり、自らの車を犠牲にしたりして車を止めた。
幸い、1人も怪我人や死者を出すことなく事態は収束した。
警察の人や周りの人には注意されたり、怒られたりした。
ここから、運転者の行動だけを取り出してみると
車が止まらなくなった。
車を止めた。
幸い、1人も怪我人や死者を出すことなく事態は収束した。
警察の人や周りの人には注意されたり、怒られたりした。
こうなるのです。
もうなんか
とてもひどい人
ですね。
じゃあとんでもない悪人なのか
というと違います。
意識が向いていなかった、見えてなかったので、自分以外が
無
なのです。
仮に、ドライブレコーダーや防犯カメラなどの映像があったとして、それを見せながら、周りの人が歩行者に危険を呼びかけてくれたこと、警察を呼んでくれたこと、車を犠牲にしてまで止めてくれた事を説明すれば、
申し訳ない事をしてしまった
と思う事でしょう。
でも、それに気づいてそうやって面倒見てくれる人がおいそれとそこらにいるわけではありません。
だから、自分が
周りを見る
ようにならなくてはいけません。
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