奇偉(きい)
彼女は僕の知らないところで、僕の知らない人たちとも信頼を築いてきた。
僕がまだ子どもだっただけだ。
玄関の柱に身を潜めたまま、僕は夜空を仰いだ。
イルカを見たその夜、夕ご飯の後に近くの銭湯に2人で向かった。
いわゆるスーパー銭湯に近い施設で、中は広く設備も充実していた。
「じゃあ30分後にロビーでね」
当然だが混浴ではないので、僕と彼女は一旦別れ、彼女は女湯の方へ去って行く。
彼女の後ろ姿を、僕はしばらく見つめていた。
束ねた長い髪が跳ねる様子や、まっすぐな背筋、白い肌なんかを。
これからのことを、考えていた。
会社に「体調不良で休みます」と連絡して5日目だった。
会社からのメールは一切みていない。電話にも出ていない。流石にそろそろまずいだろう。
僕の担当している業務は止まっているか、他の人がしんどい思いをして肩代わりしているか、どちらかだ。
はぁ、と僕はため息をつく。
ついでにぶくぶくと風呂のお湯を吹いた。
僕は何がしたいんだろう。
彼女とどうしたいんだろう。
少し早めに出たので、外の風にでも当たろうかと玄関を出ると、彼女の後ろ姿が少し先にみえた。
気があうな、と嬉しくなって近寄ろうとしたが、僕はそこで足を止めた。
彼女は電話中だった。
「そう、〇〇さんは大丈夫?え?あはは、そうなんだ。」
〇〇さんというのは、彼女の住む島の住人だ。彼女は島の看護師なのだ。
電話の内容から、おそらく勤め先の病院の人と話しているようだった。
「うん、もう少し時間がかかりそう。うん、ありがとう。感謝してる」
彼女はお礼を言ったり、患者の状況を聞いたりしていた。
そして時折声を上げて笑っていた。
僕は柱の陰で、ただそれを聞いていた。
しっかり者の彼女の事だから、きちんと職場に連絡しているだろうなとは思っていた。
でも僕は今、少なからず驚いている。
それは、彼女が電話で一度も謝っていないからだった。
「休んですみません」
「迷惑をかけて申し訳ありません」
そういった言葉が一切出てこない。
感謝の言葉は何度も出てくるのに、謝罪はない。
そして彼女の声は、終始楽しそうなのだった。
彼女の島での仕事ぶりを思った。
仲間とも患者とも信頼しあっているのだろう。
彼女の電話する声はしっかりとしていて、迷いがなかった。
そして、僕とのことも。
彼女はこの度の間中、一度も僕に旅の理由や、いつ帰るのかを聞いたことはなかった。
叶わないなぁ。
僕はくしゃくしゃと頭をかいて、ひっそりと笑って夜空を仰ぐ。
どの星も瞬くことはなく、強い銀色の光を放ち続けていた。
帰り道、僕たちは手を繋いで歩いた。
「君はかっこいいなぁ」
彼女は少しきょとんとしたが、ふふふと笑って言った。
「そうでしょう」
僕は繋いだ手を大げさに振る。
「それに比べて、俺はかっこ悪いなぁ」
彼女はさらに笑う。
「知ってるよ」
彼女の見つめる瞳はきらきらとしていて、まるで星明かりがひとみに映っているようだった。
僕は深呼吸をする。
覚悟を決めよう、そう思った。
ペンションに着くと僕は言った。
「明日、沖縄行きの飛行機に乗ろう」
彼女は少しの間黙っていたが、やがて「うん」とうなづいた。
玄関には、開いたドアから夜の光が射し込んでいた。