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三秋縋著 『さくらのまち』感想文と、作者へのラブレター

感想文のまえがき

この文章は、三秋縋の「さくらのまち」についての感想文である。

序文および最後の蛇足以外は全て本作を読んでいることを前提として書かれており、ネタバレへの配慮は一切ない。
そういった作品に限らないことではないが、各所での作品紹介で「青春ミステリー」とあるように、ネタバレを見る前と見た後ではきっと読後感が変化する類の作品であると思っている。
なので、本作、本作者のファンとして、できればこの感想文を読む前に本作を読むことを推奨する。本作を読まずにこの感想文を読まないでほしい。恥ずかしいので。

また、この文章の元は本来一般に見せることは考えておらず、ただ読後に自分の考えをまとめてスッキリとするために書き出したものである。
それほどまでに今作「さくらのまち」は私に衝撃を与えた作品で、他の三秋縋作品とともに数日間、ひいては数年間、数十年間の自身の思考を染めるものであった。

ただ、文章を書いているうちに、どうしてもこれを公開しなければいけなくなってしまった。
外的要因などではなく、ただエゴのためである。

つまり、感想を語りたい。
願わくば三秋縋を私より愛する人にこの文章を読んでもらって、出来ることなら全く違うと切り捨ててほしい。

他のなんでもそうなのだろうと実感したのだが、自分の中で誇れるくらい好き好んでいるものについて、自分よりも好き好んでいる人を見つけたいという気持ちがあるのだと思う。
この感想文を読んで、すべて違うと切り捨ててほしい気持ちが大きいが、しかしやはり「この人はわかっている人」と太鼓判を押されるのも悪くないかもしれない。

最初こそ自身だけのために書いていたが、他人に見られてしまうと意識してしまったがために自分が全く書いたことのない文体になってしまった。
きっとこの部分までで何らかの羞恥を覚え離脱する人が大部分を占めていると思うし、少しだけ残った人もこの後の文章で脱落してしまうと確信している。
ここまででも、これからでも、これはだめだと思った時点で脱落してほしい。
やはり恥ずかしいので。


今作に感じた違和感

私は、今までの三秋縋作品を「落とし穴の中で幸せに笑う二人」を見るために読んでいた。
作者本人がどこかで言ったこの言葉はとても納まりが良く、この人の作品に通じるテーマだと考えていた。

今作は、どうやら今までのテーマとは少し違うのではないだろうか、と感じた。

作品冒頭からしばらくの中学生時代、尾上と澄香は確かに落とし穴の底に居た。
だが、二人にとってそこは心地よい場所ではなかった。
二人とも、落とし穴の底はしっかりと居心地が悪く感じていたし、落とし穴の上で二人や三人で過ごす事を幸せに思っていた。
二人共がふたりとも、お互いを「落とし穴の底から救い出してくれる、落とし穴の上の人」だと認識していたと判明するのは、鯨井の手記で全てが明かされてからである。

今までの作品では、落とし穴にいることを自覚し、それでもその状況を含めて全て愛すことが出来ていたと記憶している。
つまり、落とし穴の底でも、あなたがいれば幸せだね、幸せだったね、といった類のお話である。

今作は、落とし穴の底は終始居心地が悪いものに書かれていたのではないだろうか。

最後の慟哭の通り、「サクラ病」に囚われなければ、何かのきっかけでお互いがすれ違うことなく気持ちを認識できていたなら。
それは落とし穴の底ではなく、れっきとした上の世界で幸せに暮らす二人になっていたのではないだろうか。
そして、「サクラ病」に囚われきってしまった二人は、二人を繋いだきっかけがそれであっただけで、囚われていた時期そのものに好意を抱くことはなかったと受け取っている。

この違和感こそが、この感想文を書くに至った最大の要因である。
三秋縋作品は、前作までは「そういうモノ」という流れ、お約束、様式美を再確認できることを楽しみに読んでいたし、求めていたものと得たものが大きくズレることはなかった。

今作は、読後に間違いのない動揺を覚えた。
そして、過去に抱いたそれと同じほど大きい、少し違った余韻に浸ることが出来た。

本作以前と本作は明確に分類が違い、そしてどちらも私の中の「傑作」の本棚にぴったりと収まっている。
六年と少しの期間待ち望んでいた三秋作品は、少し違った味であったが、間違いなく三秋作品であった。

もっと伝えられる、伝えたいことがあると考えていたのだが、燃料を使い果たしたのか自分が想定していたよりも短い文章になってしまった。

その他の細かい部分全ての感想、ひいては過去作全ての感想も誰かと語り合いたいのだが、語るにはあまりにもホコリを被りすぎているため、また近い内に全てを読み直した上で、今度は誰かと口頭で語り合いたいものである。


これをもし三秋縋本人が見に来たら

私は、三秋縋が自作の感想を読みに来るタイプなのかはあまり確信を持って答えられない。
全部読んでいそうだし、全部避けていそうだ。
自意識過剰だとはっきりわかっているし、感想文に付け足すにはあまりにも異物であるが、それでも書かずにはいられなかった、本人に宛てた文章が生まれた。

以下はれっきとしたラブレターであるため、文を本人以外は読まないように。





感想文は、本来作者その人が読むようには出来ていないんじゃないだろうか。

作者に宛てた文は批評とか評論とか、そういった作者への問いかけやアンサーを明確に投げつけているものだと考えていて、感想文はそうでないと考えている。
批評・評論ではなく感想文と書くファンは、君の受け取った感想はまるっきりアテが外れているよ、と本人から伝えられることをとても恐れているんだと思う。私がそうなのでそう思っている。
感想文と批評・評論の上下とか優劣とかを語りたいんじゃなく、作者からの答え合わせを恐れているのが感想文であり、作者からの答え合わせを待ち望んでいるのが批評や評論なのではないだろうか、という所までが今たどり着いた考えである。

そしてこの文は明確に感想文であり、作者本人からのアンサーを全く考慮していない、言ってしまえば、恐れきっているものである。
そんな感想文として世に出しているのだが、私は全く矛盾したことも考えてしまっている。

あなたが本を出していないときから、生み出した作品すべてを愛している。

そのくせファンレターなど出したこともないし、例えば周りにファンだと自慢することもなかった。
本が出たら買う、Twitterで買った報告はする、でもその程度の活動しかしていない、いわば無数にいる、ただの普通のファンである。
これからもこのまま自我を出さず、ただの普通のファンの一人であり続けるつもりだった。

だが、どうやら耐えられなくなったらしい。

今、私はこの文章を、普通のファンから一歩抜け出したい、抜け駆けをしたいと思いながら書いている。

どこまで抜け駆けたいのか?
ファンの中でも一番飛び抜けて好いている存在、などではない
いにしえからくっついているとびっきりの古株、ということを伝えたいのではない
ましてや、あなたの友人でありたかった、ということではない。

もちろんそれらは私がなりたかったものではあるけど、私はそれには成れないので。

ただ、無数にいる普通のファンの中にいる自分を見つけてほしかったんだと思う。
普通のファンとして認識してほしいのだと思う。
普通のファンとしてのお願いが一つだけ。

贅沢は言わないので、三秋縋がこれを読んだという証がほしい。
普通のファンが一番喜ぶものなので。


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