母と娘の読書会から出会った一冊『主婦である私がマルクスの「資本論」を読んだら』
今年の2月から1ヶ月に1回、母とお互いの本をおすすめする会(読書会)を開いている。
私が就職を期に書店のアルバイトを辞め本に触れる機会が少なくなる憂慮から、アウトプットをする機会を持ちたいこと、本に関する活動をしたいという私の目的を達成するために母親を巻き込んだ形だ。ありがたいことに私の母は私の本に関する活動を評価してくれていて快く賛同してくれた。その中で4月母が紹介した本がこのチョンアウンの「主婦である私がマルクスの資本論を読んだら」だ
あらすじ
母について
私の母は1986年男女雇用機会均等法ができてから、日本の大企業と呼ばれる企業に就職し、5年ほど働いた後結婚・出産を期に会社を退社し専業主婦になった。母は家で家事をして育児をする、いわゆる専業主婦の仕事がとても好きだったという。私も母が家にいることが好きだった。話をいっぱい聞いてくれる大人がいることは、おしゃべりだった私にとって最高の環境だった。そして当時から私は妙にお金にガメツイというか、変に特権意識を持っていたというか。母が専業主婦でいられる=家に金銭的に余裕があるという証拠だと嬉しく受け取っていたのもあった(嫌な子ども)。しかしフェミニズムを学び始めると母が働いてくれていたらという感情を持つようになった。その時就職活動が重なっていて働くことについて考えていた時に”母がもし働いていてくれたら働き続けるロールモデルになったのに”と思ったからだ。
抜け漏れがなく緻密に家庭を運営している母の姿をみると「もし働いていたらどれだけ優秀だったのだろう」と思うようになった。「お母さん今働いていたら絶対お父さんより出世してたよ」というと、いつも母は「いやーそれはないよ。お母さんはこっちの方が向いていると思う」と言っているのが、もどかしかった。優秀な母が、専業主婦という枠組みに収まっていることがただ”もったいない”と思っていたからだ。そして私は、フェミニズムに触れれば触れるほど、経済主体を他人に依存する専業主婦という道ではなく、社会に出て一生懸命働く人になりたいと思うようになっていた。
資本主義と専業主婦
『国際分業と女性ー進行する主婦化』の著者の言葉を借りれば専業主婦という存在は資本主義と大きく関わる。資本主義を支えている要素に女性、自然、植民地の3つがあるという。資本主義では資本が商品を売って利益を得るためには労働者と天然資源が必要だ。自然が天然資源を提供し、女性は男性労働者に食事・睡眠を取らせて労働者を再生産する。
そしてこのような再生産行動を国民総生産の一部としてカウントしない。つまり労働者が働きに出られるようにご飯を料理し、休める空間である家を掃除する等の「再生産行動」は経済行動だと認められていないのである。(これに関連する話で最近完全失業率について学んだ。完全失業率の”完全失業者”に含まれるのは一定期間求職活動をしていない人の割合であり、この定義下では専業主婦もその中に入るという。)このような文脈から地位向上のためには家事労働の「家事」をまとめてヒエラルキーをあげなければならないと、女性運動家、そして政治哲学者のシルヴィア・フェデリーチはそうでなければと主張する。
この構造を理解し再生産活動がどういう構造に置かれているか理解した時、母に対しての認識が大きく異なった。
母が専業主婦であることによって恩恵を受けていたのにも関わらず、母が専業主婦でいる状態を”もったいない”と思っていた。いわば、専業主婦という存在を誰にでもできるものという認識で、その認識のもと資本主義の枠組みにある職業、かつて母が企業で務めていた職業とは同等に考えていなかった。つまり母に対する視線は、再生産活動は資本主義の中の”本当の”経済活動から排除された活動である構造を無批判に吸収したことに起因したものだった。
資本主義が引き裂く「非婚」と「既婚」
そして母が家事に従事していることを残念がったりもったいがったりしていた自分の視線について再度考えるようになった。おそらく私は母を「キャリアを積んで仕事で地位を獲得するべきだったのに、時代のせいで専業主婦という枠を押し付けられてしまった人」という認識だったのだろう。そしてその認識には専業主婦に対する見下しが内包している。母がいくら「専業主婦の業務が向いている、すごく好きだ」と主張しても私は家父長制の加担者であり被害者だという認識以外の見方をしようとしなかった。いわゆる「私はお母さんのようには生き方はしない」というセリフの延長線上にある考えだ。著者は以上のような資本主義に基づく専業主婦への視線について以下のように述べている。
著者は「家で遊んでいるんだって?」という言葉から感じた心の奥底のざらりとした感情を、15冊の本を読んで言葉を得て再構築した。それならば、私は母親に感じていた感情をこの本で考える言葉を得て再度構築したと言えるだろう。その過程と同様に、私が持っていた母への思いは決して個人の問題ではなく「資本主義」を中心とした現在の構造の問題であると気づいた行程だった。
読書会というコミュニケーション
そしてこの本を母と読書会を通して出会ったというのも大きな意味があったと思う。なぜなら、今までしたことのないコミュニケーション方法だからだ。私は心が辛くなったり喋りたいと思うとすぐ母を頼るため、距離が近い。しかし、すぐ話して、思いっきり自分の感情を表現できる相手だからこそ、読書会という改めた枠のある会話がくすぐったい。
けれど今回「読書会」という枠を通して、私が知らなかった母の体験を間接的に体験することができ母との関係に少し変化を生むきっかけになったと思う。