選べることは2つのうちどちらか、なのだろうか?

 私がメインフィールドにしている福祉の分野だけではなく、いまではいろいろな分野で「自己決定/自己選択」が重要な考え方であるといわれるようになった。特に「選べること」は「表現」や「表現の自由」と結びつき語られることが多くなった気がする。そんな中、ある企業のとりくみの記事が目についた。

 タイトル、記事の作り方、見せ方。いろいろなところで引っかかる。いい意味でも悪い意味でも。もちろん、「記事」なのでそもそも貝印という企業が打ち出したかったメッセージがストレートに表現されているわけでもないだろう。そのことを差し引いてもなかなかに興味深い。いい方をかえれば、貝印という企業のメッセージも、それを記事にしてこう表現した「huffposost」もだ。私がこの記事を読んだときに、頭に浮かんだのはこの記事だ。

体毛を剃るか剃らないかは個人の自由だ。
ひと言で言ってしまえば終わる話は、実はそう簡単な話ではない。
「自己選択」のパラドックスがそこに存在する。
そう「なんのためにだれのために体毛を剃るのか」というパラドックスが存在する。そして、もう1つ悩ましいのは、そのことは既存の価値感のアンティテーゼのように語られることである。
男性は剃らない 女性は剃る つまりは女性は剃るべきであるという社会的な価値感=圧力がある、ということが前提にすえられている。なので、貝印がわざわざ「バーチャルヒューマン」というアイコンの設定をあえて行い、その背景に、特定の実在の人物を起用した場合にそこに主張/表現がみえてしまうからと言っている。「PASSING」だ。あえて避けている。
 私たちはあたりまえや常識に対して、そのことを打ち破るためにどのように対峙しているのだろうか。
・アンティテーゼを提示する。
・あえて避けるような表現をつかい別の選択肢を提示する。
・自由や自己選択という別のイデオロギー(社会思想)をもってきて別の選択肢を提示する。
 日本では、ほとんどこういったことかと思う。勧善懲悪、正義か悪かの二項対立的、心の中の声は「破壊」というキャッチを舞わせているが実際はアンティテーゼであることがほとんどだろう。
 そうそれぞれの意見を尊重して、議論をして、いろいろな選択肢を提示しながら、選択できるようなものを多数に提示していくということをすることに私たちは慣れていない。すぐに、AかBかになってしまう。2つから選択すること、選べなかったから選べるようになってよかったね。ではなく。また選択肢を出すことだけが、自己選択を保障することであるという勘違いもなく、選ぶことができる社会をどう創り出すかを考えたいものである。

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