「春」という文化

いまから30年ほど前に、北欧(フィンランドとスウェーデン)に研修旅行に参加させていただいたことがある。基本は福祉の視点の研修だったがそれこそ、日本でもまだまだ福祉はいま言う福祉とは違った時代。そして、福祉国家としての北欧特に、スウェーデンが称賛されていた時代。なぜ、日本では福祉国家としてのスウェーデンが注目されようとしていたのかがコンセンサスすら薄かった時代の話。
そのものの話はこれまでも何回か書いたり話たりしている。今回は福祉ではなく、教育というか、文化の話。研修訪問の中で日本でいう小学校に訪問をさせていただいたときに、


「その国がこどもたちに一番教えたいことが小学校一年生の一番はじめに教えることになっている」という話がとても印象に残っている。

そして、スウェーデンは、
フォークとナイフでゆでたじゃがいもを食べることを教わる、と。
ゆでたじゃがいもを主食にしている彼ら。

日本で言えば、ごはんと味噌汁をお箸でたべることを教わると。

通訳をしてくださっていた藤井恵美さんと、その研修旅行のコーディネートをしてくださっていた劇作家の故・宮内満也さんとそのあとも、その話をさせていただいた記憶がある。
「いまの日本では、それは何?」と

暮らしに密着した自分たちが文化として身に付けていきたい生活習慣ではなく、
どの小学校の校庭にも 桜が咲き 入学式は桜とともに迎え
国語の一番はじめに 
「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」
昭和初期の国語の教科書 一年生が最初に学んだ言葉

という話があった。いまの小学校一年生は?さすがに、「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」はないがそれでも慣習的に桜に対して思う気持ちを生成される。

グローバル社会になって(グローバル社会を称賛する気はないが)久しく、いろいろなことが流動化しているといいつつ、この時期になるといろいろなところで、4月からは、という話がきこえる。自分のまわりや接する情報が流動化している人たちと近いにもかかわらず、そうした「4月」をみるたびに、流動化という話が結局は一部の話でしかないことに愕然とする。
変えていいことが変わっていかないことにやはり憂いを感じる。そして、だから伝えたいことが霧消する気がするのだ


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