「分断化はよくない」というなんともパターナリズム的な言説が拡がっているような気がして仕方がない。
 「安心・安全なコミュニティだからこそ」という言説も多く見かける。現在の社会をすでに「分断化している社会」であり、「分断化している社会」は「暴力的な社会」だと言われているのだろうか。あながち間違っていないのだろうと私も思うと同時にそれでいいのか、と思う。「暴力的な社会」を肯定しているのではない。「分断化している社会」とはどういう社会なのだろうかと思うだけである。
 言葉遊びをしたいわけではない。念のため。
 分断化している社会を否定し、安心・安全なコミュニティを声高に唱えるとき、それは内部矛盾ではないかと思うのだ。人は安心安全なコミュニティを求めるときに、自らの内面の同質性を求めるように思う。他者との距離をとりつつ、他者と他者のいるコミュニティに存するときに自らとの同質性を安心の第一義にする。受けいれられている感情とでもいえるだろうか。共感性に類似するだろう。なんらかの同質性の感情がないと安心・安全の心は生まれないと思う。それが形式的、規範的であればあるほど、安心/安全のこころの中に、内なる「異質性」を産む。
 その「異質性」こそが「分断」の萌芽である。
 そう考えると、そもそも他者との関係は「異質性」との出会いである。当然、その葛藤(コンフリクト)は前提であり、ある種の主張は異質なものとの出会いにこそ、化学反応という新しいものを生み出すエネルギーが生まれるという。そう、分断は本来は異質なものとの化学反応を起こしうるような距離を離れ、相手を攻撃することだけに供するときに使われるはずだ。
 社会というのは、一定以上の規範性をもつことによって形成される。分断化されている社会とは相手を認める認めないというようなレベルで議論をするものではないように思うのだ。
 それより、尖った発言を批判し、同質化したコミュニティを過剰に求めることは、受けいれられたいと望む気持ちとは裏腹に、より分断化を進めていく。これは個人のことだけではない。
 支配と独占を柔らかいことばだけで、私的な世界の共有化という方法論だけで「指摘」することそのものは大きな分断の暴力性をはらんではいないのか?自分の体験がなんらかの人の心の役に立つというのは、共感性を武器にした尖った方法論ではないのか。争いを批判し、暴力性を批判し、その世界から表面上だけ逃げていくことは、知の同質的な独占でないと言えるのか。
もやもやしながら、今日も陽は昇る。


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