「医療」に制限されることはすべて「治療」といえるのか?
私はこどものころに腎臓を患った。小児慢性腎炎。ものこころつく前だから覚えているのは病院に入院をしている自分といろいろな病院まわりを母としている風景と、自宅のベッドに足を括り付けられていた情景である(虐待ではないので念のため)。BLOGなどには書いたことがあるが亡くなった将棋の村山聖さんの小説や漫画を読むと同種の病気で同じ病院にかかっていたらしいことがわかる。
一両日、twitterを中心に炎上している「好きなものを好きな人と食べたら誤嚥しない」事案にドクターたちが、医療が病院の検査を元にいろいろなことを制限することの問題を提起している。
そう医療による過剰な生活行為の制限は病院ではない場所でどの程度許されるのか?治療という名目で。延々に続く議論なような気もしている。
私がこどものことの腎炎の治療は、運動療法と食事療法だった。最近の治療法では運動療法であり、全面的に禁止ではないようだ。患って数年たってもよくならず、蛋白尿、血尿が続いていた私は当時高名だった先生にかかった。徹底した運動制限と食事療法(塩分と蛋白質摂取制限)だった。小学校一年生の一年間は学校に行けず、ずっと自宅で静養。といっても7歳。自分で自分を律することができず、ベッドに足を括り付けられていた。それでもよくならず、小学校2年になって1年近く入院をした。私は小学校を半分も行っていない。当時は院内学級などというものはほぼなく、治療が優先が当たり前だった。
病院に入院していた一年近く。
ベッドからは降りてはいけない。トイレもすべてベッド上。入浴は疲れる(運動との扱い)で入院中入ったのは退院前の1度のみ。食事は、徹底した減塩食、減蛋白食。1日の蛋白質の接収量は、ゆで卵の黄身1個とパックの牛乳1パックのみ。塩味は一切なく減塩醤油を2CCのみ。それが1日の食事。面会は週に2日のみ。そういった治療生活。
「治療が生活を優先する」それは10代の自分の最優先価値感だ。自分の生活人生は自分の手にはなかった。すべてお医者さんが決めていた。いまから約40年前のことだ。
その後、治療法も少しずつ変わっていき、運動制限も食事制限も緩和された。まさに医療の進歩なのだろう。高校くらいになり、自分で大きな図書館に行き、自分の病気を自分で調べるようになった。一時期は医者になりたかったが医者にはならず、当事者・病者の自分としての生き方を選んできた。病気と共存している自分。いまでも検査をすれば血尿と蛋白尿は当然のように出ている。失ったものは多分大きかったのだろう。人生の時間の経験は「もし」が通用しない。受けいれるしかない。医者(医療)がもつ情報は、選べる情報として当事者に提供してほしい。それがその当時のベストだとしいても。自分の経験としてほんとうにそう思う。