私がみえている世界はあなたが見えている世界と同じではないということ
「私がみえている世界はあなたが見えている世界と同じではないということ」。実はあたりまえのことなのだが、私たちは、私が私であるために、見えている世界が同じであることを無意識のうちに望んでいる。
これは「見えている」ではなく、「知っている」ということも同義だ。
「私が知っている世界はあなたが知っている世界と同じではないということ」である。
では、知らないから、見えていないから、いいじゃんそれで。ではない。
1つは私たちが見えている、知っている世界は、なぜ、そうなっているのか?という構造を探求することによって、実はなぜ人によって見えている、知っている世界の違いが起こっているのかを知ることができる。そこにはもしかすると、理不尽なことがあることがわかるかもしれない、探求することによって、自分が見えている世界が拡がったり、他の人が見えている世界が少しでも理解できるかもしれない。
2つは、あなたが見えている世界を知ろうとすることで、あなたと私の世界が融合したり、あなたのことを知ることができるかもしれないし、あなたの見えている世界と自分の世界の違いを知ることができるかもしれない。それによって、私が見えている世界が変わるかもしれないし、私が知っている世界が変わるかもしれない。違いを知ることは、わたしたちが社会のいう「他者」がいる社会・集団の中で暮らし生きていくことにつながっていく。お互いの違いを知ることによって暮らしていくことができる。
3つは、私の「見ている」「知っている」世界が私だけのものであることを自覚することによって、人生の生き方を選ぶことができる。私は私のことを自分で決めることができることを学ぶ。人の中で生きている自分たちは、ともしれば、集団規範を守ることを強いられ、私がみえている、しっている世界は他の人と同じであるような教育を受けることが少なくない。そのときに私がみえている世界は私にしかないことで、そこから逃れることができる。
育ち、成長している中で、どうしても環境に左右されながら私たちは生きている。
それでも私に見えている世界は、私にしか見えていないのだ。そして、それは他者のコミュニケーションの中で、相互のやりとりの中で、私しかないことを想像することができるのだ