「境界がない」とは

閉ざされた空間をあえて開くことができる構造で創る
と、このインタビューを読みながら感じていた。が、これは「境界がない」ということなのだろうか。

従来から西洋(ヨーロッパ)の建築および建築文化と日本の建築および建築文化の違いの中に、内側と外側の連続性や曖昧さは建築分野だけではなく文化論としてもずっと語られてきた。縁側(えんがわ)にしろ、壁ではない垣根にしろ、完全に区切りがあるわけではなく、あいまいな「ウチ」と「ソト」の連続した存在。妹島氏はインタンビューの中では、これを

内から外に広がっていくのが、日本の建築なんです。縁側や庇(ひさし)、庭などがあって、外側の自然に対しても“ぶくぶく”と、自由に広がっていきます。扉を開けても、どこまでが内側で、どこまでが外側なのかという区別が曖昧ですよね。

また、障子や引き戸のような開閉が自由な「密閉しない」ことをその特徴とも語る。

建築家からすれば、というより、建築からすれば、内側から外に「ぶくぶく」と拡がっていくという表現になり、地域文化論からいえば、外側からの連続性が担保されているという表現で自然との一体感という象徴になるのだろう。
内側から「ぶくぶく」と自由に拡がっていくものは、そこに葛藤や化学反応が生まれ、自然との共存を考えていかなければならない。そして、それがサスティナブルにつながるといわれる。

内側を「きちんと」(密閉でなく)区割りする(区別ではなく)ことは、一見矛盾している。しかし、このインタビューで語られているように、オープンイノベーションなどで語られているコンセプトはそこに通じる。

ヨーロッパの街を歩くと、日本よりも多くの公共スペースを見つけることができる。ホームパーティと称し、庭で多くの友人が日常的に集まる。外から内に入るときに靴を脱がない。そう彼らにも、語られたような外と内の曖昧さ区別のなさが多く存在している。それでも建築文化からすると、内側から外にぶくぶくと拡がる日本の建築とは思想が違うという。

同じように「外」と「内」を語ってもこうして議論になるくらい実は生活文化というのは「生き物」であり、深層的な個人の中に浸みいっている暮らしのリアリティを「社会化」することは難しい。そして、それを切り取って議論することは興味深い。

境界はある。
その境界を境界として語ることで、そもそもの論点であった外と内の話は泡消する。「閉ざされた空間をあえて開くことができる構造で創る」ことに意味性をもたせ、それを単なる自然との闘いとしてではなく、その先にある共存を意識する。それは境界があるからこそできる。

そこにオープンイノベーションの意味はある。そう思う

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