きりとり

 物事の「切り取り」方はそれぞれの人、いや、人というよりも思考の回路によって違う。こんな見方もできれば、こんな見方もできるというのは使い古された言い方だ。山の頂はひとつだが登り方はいくとおりもある「かもしれない」ということ。

 ここのところの新型コロナ感染の再々拡大とともに、いろいろなつぶやきをみるようになった。すでに8月ごろから自殺者の増大が数字としてみえてくると、いろいろな立場の人がいろいろな言い方をされている。まさに、「きりと」ってそれぞれが発言をなされる。発言はもちろん自由だ。

 一年で亡くなる死因を並べて、癌では何人、脳梗塞で何人、自殺で何人、インフルエンザで何人、交通事故で何人、そして、コロナで何人 だからコロナに何をこんなに恐れるのか、という言い方をされる人も少なくない。もちろん、このことをインパクトのある象徴的な言として、きちんと整理する前段として使われる方もおられるのはわかっているが、それだけをみていると、個人的には単なるこじつけにしか見えない。

 物事の説明は常にきりとりによって論理展開がなされる。論理性がないものはここでは論外だが、実際のところあまりにも都合のよいきりとりが散見されるのもここのところの強い傾向なのかと思う。インパクトのあるセンセーショナルなタイトルが出てくると、どうしても「?」と首をかしげてしまう。そこから、お互いの「きりとり」の背景を交差させていけるのであればいいのだが。

 私は論理的な話をするときに、時間軸の幅をかなり意識する方だと自認している。歴史ということばとはちょっと違っているのだが、平たく言うと歴史に近い。その言葉や概念がどこからきて、どう使われ育まれてきたのか、人間社会、その地域の文化によって変化してきた事象の一つとして。さらに、定点的な横の広がりも意識する。つまりは「時空」を意識するという「きりとり」方をする。

 なので、ナラティブな事象をしてきりとりをされると強引だなと感じるし、そのことを「共感性」のみの拡がりで説明されると、ちょっとなじめない。人間ができてないので、いまだにやっぱり「イラッ」としてしまう。Twitterは危険だと思っていて、よく失敗をして謝罪するハメになっている(すいません)。自分のきりとり方も一つのきりとり方だとわかっているのにと自省する毎日だ。
 それでも、やはりきりとり方がもっと豊かになって議論したいと願う。


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