可能性の哲学 《metaverse試論》 〈前半〉
はじめに
本稿『可能性の哲学』は、ある意味で言えば織田作之助『可能性の文学』と相通じている。それは題目を似せてつけたわたしにその原因の一端があるだろうが、ひとつ内面から沸々と湧き出てくる素直な言葉であったと思うのだ。日本における近代エゴの問題はあるときから非常にデカダンの雰囲気を醸し、われわれはその空気に収まるうちにユーモアや冷笑、はたまたそれら全てによる諦観をみずからの拠り所に据えたのである。畢竟、今の政治行動に表れるノンポリティクスはその象徴である。われわれは人々の自己喪失が真の意味で喪失されているわけではないことを知っているから、つまり現代人は意識上ではみずからの存在を究極的に隠蔽されようとするが、本能の例えばもしも性欲が根源的には尽きぬものだとしたら一体全体如何様にして失われた自己が上昇していくのだろうか。確たる土台の無いみずからの拠点に絶えず救援物資が送られたのだとしても今やそれを授受する術はない。いわんや所有という行為が成功されることはない。それらはやがて溢れ落ちて自分以外のところに行くのである。これらのことからわれわれの快楽はなおも刹那的になり、将来に対する礎も築かぬままである。われわれは悲しいのだ。現代を取り巻く状況が、不景気で少子高齢化で自殺者は年々と増すばかりで、あるときから進歩し始めた人間がまさにそのことによって進歩する気概を無くし、だけども物質は豊かになり、豊かになればなるほど人間が儚くなることが。余り悲観的だろうか。悲観的の効能はしかし行動を遅らせながらもあるいは停滞して、物事の道理をよく考えさせる。それらは危険察知に役立つのである。ある意味で悲観も絶望も非常にニュートラルには他の行為とも変わらぬただの行為であるから、もしもこれらを悪だと決めつけるのならば、そうと決めつける人間にとっては悪事に用いることなのである。つまり濫用的な使い方ではなく正式な使い方を覚えることによっては良い効果が得られるのである。さてわれわれの前に現れたものとは男道、女道、茨道、獣道、いずれも分岐路だ。わたしはつまりこう言いたいのである。「全ての道をゆけ!」われわれが別れを前に立ち尽くしてしまうとき、きっとよく考える。それは離別していくとき後悔しないためである。逆説的にこのように考えよう。もしも岐路に面した際にある人物は必ず一番右の道を行くと、またそのような人が自分を持っている人間であると、そのような人物はあるときは緩やかな道を行き、あるときは険しい道を行く。あるいは余りの険しさの所為で峠への道は半ばに終わってしまう。しかしながらわれわれの自己喪失とはその歩みは遅く、決して深みには到達しないだろうが、というのも確たる自己が信念をもとに行動すれば必ずどこかに軋轢が生まれ、そのことによって感情は深化されるのだが、わたしたちにはそれがない。われわれとしてはそのような障害を克服した偶然来の代物を目指すのではなく、むしろ山の生き物が棲息するように山を知り、その掟を守るのである。それは自己を喪失しなければできないことである。われわれは八百万の精霊に自己を捧げることによってしかプライドを保てない。『可能性の文学』では坂田三吉という棋士について、「南禅寺の決戦」「9四歩」を織田氏は論じられた。わたしも将棋は好むので大変面白く読ませて貰ったが、デカダンの作家につけてしばし見られるのは可能性への野望である。特に織田氏の文学には悲しさからくるユーモアとそのユーモアが嫌味にならない程度に退廃的陶酔がごく僅かな可能性に投じられる。その抜粋が以上のエッセーにはよく表れていたように思う。だいたい坂田三吉を好ましく思う人間はアマチュア棋士に多く、かく言うわたしもエッセーを読んでから有名な棋譜を洗いざらいして、将棋のロマンに浸ったものである。坂田三吉にはまた「銀が泣いている」というのもある。これは「9四歩」と同じくらい有名で、ざっと銀将は攻守の要の駒なのだが、それが悲しいほどに盤上を渡り大いに空振りしてしまう、というものだった。しかしこれほどに不名誉を標榜されたプロ棋士というのも珍しいのだろうが、魅力的だったことには違いない。これは決して滑稽なことではなく、感動的に面白い。この魅力は実際彼が強い人間だったことを意味するし、たとえそれが大一番の対局であっても節操なく遺憾なく強さを発揮することがその条件的だった。彼は茨の道をゆく、あるいは道なき道をゆく棋士だった。きっと織田氏もわたしも惹かれたのはそんなところである。観戦者にとって幾重にも個性的な棋士が存在していて、ことに明治大正昭和において織田氏はそれを目の当たりにしたのだ。時は流れ、わたしも将棋愛好家の端くれとして江戸から令和に至るまでの将棋の歴史を眺めれば、やはり可能性に満ちた仕事は連綿と続いている。わたしには織田氏がなぜカリスマの仕事を取り上げたかが分かる。それは天才になれぬ者の業である。大正の頃にはもうそういう空気が流れ、佐藤春夫にしても坂口安吾にしてもデカダンス文学はみなこの人間を打ち負かすことができない苛々を往々にして募っていた。その主題がマッチしていた時代に文壇というものがあって、今となってはそもそも文壇は弱い。であるならばこれらの気持ちの延長には天才に憧れるだけでは足りない。わたしが題目を『可能性の哲学』としたのには相応の理由があって、その気持ちを突破しなければならないからである。さて文学を突破する哲学は文学者のイデアを共存させて、まるで山の生命が融通無碍に対話するかのようである。言うまでもなく本来は作中の人物が数々の体験をしてというのは文学の土俵であった。しかしながら文壇の衰退を見るに、文学勢力が落ち込んでいるとすれば、それは面白くないからである。あるときから登場人物に向いていた好奇心は作家の方を向き、それらモノローグの観点から特異な体験を持つ作家にこそ関心はあがるもののそれも一時的に過ぎ去ってしまうのだ。端的に申し上げて、われわれが提案したいのは面白い物語の形式である。それは登場人物が溌剌としている文学であり、哲学的な意味としては文学者自身が物語レベルに参加することである。近代という時代に特殊だったのは、急速な個人主義が進むことによって自己にラベリングする用途で文学が用いられたということである。またそれらを競わせる場所が日常にあったということである。さて勘の良い読者ならお気づきかもしれないが、その手段としてメタバースを用いたいということである。本稿がメタバースについて分析を試みるとすればその為である。またこれらの理由の他にメタバースに対するリアリティを先進諸国の中でも日本が随一に感受しているかもしれないことについても論じられたい。というのも仮想現実に適応する能力は、やはり自己喪失の表れに重なるのである。文学的オリジナリティという点で言えば、新感覚派的な作家の自然表現の豊饒さやみずからをイベントの枠外に退ける喪失的な在りようはまさに独特であるし、そもそもそのような芸術表現の土壌がアニミズムに由来するからである。平面主義や多様なキャラクター性も文化レベルに浸透している。これらは文化論として追って後述されたいが、兎にも角にも文化水準が高いことに変わりない。さらに現実を取り巻く状況としては長期のデフレーション(失われた三十年)、少子高齢化による労働生産人口の減少、年間自殺者の増加、これらは先進国が遅かれ早かれ経験する事項であるならば、場合によって事態を解消せんとわが国がリーダーシップを執って先進諸国に対して幾らか先導権をとることになる。たとえばわが国において年金問題は年々深刻になっているが、それというのは人口分布のバランスによって今や賦課方式は最善とは言えないけれども、今更に変更することは現実的でないというジレンマがある。おそらく何処かの時点で年金受給者よりも生活保護者が多くなるということを考えなければならない。そのときこれらを秤にかけて社会保障費を政府は増額していくのだとすれば、日本の社会システムとは過半数計画経済的である。当然わが国が倒れてしまえば元も子もない話だが、このような厳しい状況を克服していけるのだとすれば、むしろセーフティネットの機能を信用的に運用することができる。これらに示唆的なのは、先進諸国においてベーシックインカムの議論は盛んだが、いずれの国家もテストの域を越えていない。しかしながらこれらの研究の重要性は年々増していくだろう。さて既出の問題、はたまた敗戦国としての悲哀といった様々な課題をわが国は引き受けているが、ひとつの解決策として文化的な牽引をしていくというのは有効のように思う。というのも実際に文化的側面と経済的側面を切り離して考えることには無理があるだろうし、我田引水かもしれないがアリストテレスは以下のように記述している。
したがって人間にとって前例のない経験をするということが如何に知性を満たし、かくも本質的な悦びを与えてくれるだろうか。そしてこの悦びのために明日への希望を抱くのだとすれば。
緒論
少し前にアーレント氏のいくつかの著作をわたしは読んでいたのだが、ひさびさに感銘を受けたことを覚えている。もうすこし正確に言えば、今年の初夏にわたしは彼女の一連の著作を読み漁ったが、その仕事の中でもっとも魅力的だったのは、『人間の条件』の緒論にほかならない。その緒論の内容については直ぐ後述するが、わたしは店舗の累々とされた平積みの書物の中から、この本を手にしたときの感動を少なくとも幾らかは覚えている。去年の春『人間の条件』の新訳が出版され、つまるところその新訳版を手にしたわけなのだが、今となってはその新訳版が出版されていなければ、いまだにアーレント氏の仕事を無視していたかもしれないということを非常に心配している。勿体ぶるつもりも特にないのでもう簡潔に言ってしまうが、『人間の条件』の緒論は、「1957年、人間の手になる地球生まれの物体が宇宙に向けて発射された。…… (以下略)」という文章から始まる。この人工衛星の打ち上げを人類のある発展の象徴的出来事として、またツィオルコフスキーの名言 ──「地球は人類のゆりかごである。しかし人類はゆりかごにいつまでも留まっていないだろう」── も引用しながら、「スプートニク計画」の印象を語っている。先に申し上げておくと、氏とわたしの感想は違う。しかしながら彼女が「地球からの飛翔」というものに強く反応したのと同じように、わたし自身も遅ればせながら反応を示しているわけである。氏の図式は人類が地球の自然から飛翔するとき、宇宙環境下では人間の条件が人間に符合しなくなるということ、つまり地球環境化でなければ人間の生存は叶わなく、人間というゲームにおいて地球を究極的な前提としている。このことから人間性の回復について論じる際も保守的なアプローチをする。というのも第一章から始まる「人間の条件」第二章「公的領域と私的領域」もローマの政治形態を常に参照しながら、近代のものと比較することで、その人間性を確認する方法である。それ以降は詳細を考察していく中で、マルクス的な労働観を斥けるようにして展開されていく。労働については後々考えられたいが、ともかく過去から現在までの歴史として人間の条件はどうであったか、『人間の条件』がどのようなタイプの書物かと言えば、記念碑的である。われわれの実感としては、そういったモニュメントを見て関心することがあっても、それが実際に影響力を持って生活に反映されるとは考えづらい。というのも、氏はまさに歴史の発展法則を否定することで行為の予測不可能性に神秘性を醸成したのだから。このことがわれわれに未来について考えさせないとすれば、人間の為すべきこととは果たして何であるのか。なるほどたしかに周辺のことについて行為は確率的に存在する。われわれはそれを見誤るべきではない。自由から偶然性を剥奪されたものが必然性のレーンから逸脱できないということ自体が自由ではないというのも理解に足るが、人間に与えられた自由において神秘を解明することは人間の条件ではなかったか。氏は行為の理想状態を論じ、理想へと至る具体的な提案を矮小化しているのではないか。身も蓋もないことを言うが、史実爾来もしくは人間爾来の今日へと至る全歴史において人間の条件に即して生活してきた結果なのである。その結果から人間の条件をとりだしたところでほとんど同義である。「地球からの飛翔」このツィオルコフスキーが与えた命題は氏とわたしの間で異なる相を見せる。過去信じていたものが未来においてなぜ信じられるべきなのか。逆説的に未来へと行かなかったとしたらなぜ人間であれたのだろうか。同時にこの逆説は氏のテーゼを完全に否定することにはならない。というのは、まさに「地球からの飛翔」であるからである。地球生命体である人間という文脈を支えるのは氏の説であり、そのメタ領域に宇宙生命体としての人間という文脈を考察する。比喩的になってしまうが、われわれは地球に留まる限り、地球の重力に従い、地球の自然が提供する食べ物を食べる。しかしながらロケットで大気の層を抜けた先では宇宙空間の物理に従わなければならない。その生存条件において、地球人に与えられた選択肢は二つである。われわれの生命体を変更するか、宇宙空間を変更するか。とすると一方の理屈では、われわれは地球にいるときにも徐々に息を止める訓練をして無酸素空間のために身体を用意すべきである。極端なことを言えば、人間にとってハードな環境下である宇宙空間に過不足なく適用するために屍体をロケットで送ったとしたら、あるいはある程度訓練をして宇宙空間に一分だけ耐えられるとしたら、このことに意味があるだろうか。われわれにとってより有意義なものは持続するものである。現にわれわれは宇宙飛行士が宇宙服を着ていることを想像できるし、もし宇宙で新たに生活しようとするならば、われわれは宇宙空間に局所的でも地球環境をコピーしなければならない。少し技術的な話をすると、プラトンのイデア論は前者的である。このことについては後々詳細に記されたいが、むしろわれわれの役割は宇宙を観照すべき住人ではなく、新たな世界の住人にとって観照すべき世界である地球を宇宙空間にコピーすることである。つまり哲学の問題は非常に崇高に脈々と行われてきたが近代以降人々は語る力を失い、それはマルクスのテーゼが精神的法則をある一定の経済原理に還元してしまったことで人間固有の意志問題が矮小に感得されてしまう感情の働きのために精神的な人間が否定されたことに由来する。ポストモダン的な問題とは、ハイカルチャーとサブカルチャーの実質的な連絡包囲網的であり、その実質が世界に影響されるときには、企業の売買運動によって個別に理念的に感じられる。すなわちかつての哲学の位置に座しているのは、起業精神である。そしてその内容は、ハイカラとサブカル、聖物と俗物のたゆまない交換から生じる成果である。あえて古典的にこのことを表現するならば、人間存在とその認識が成長しているのだと実感されるとき、教師たる神は童心に非常に遠い存在であると感じられてくる。このことも後に詳らかに論じられたいが、われわれは崇高たる神の存在を模倣することで、文明を発展させ、時代が現代に近づくにつれ、その遠い視座を近づけてきたのではないか。メタファー的ではあるが、親の庇護化を抜け出せない子供は、自分が大人になるまで親は逆らえない厳格なものとして受け取る。しかしながら一旦背丈を抜いたならば、家長を殺し自分が家長の席に座することもできるのだと思われてくる。そうした作用として非常に謀略的な時代を経てきたのだとすれば、われわれの計画は神の殺害に関心的であっただろうか。これは一種のエディプスコンプレックス的であるが、この神話の可能性としては、前述した通り、厳格な親子関係から生じる問題である。もしもこのことが人類にとって未だに刺激されるのであれば、文明は自立できていないのである。われわれの関心としては親子関係は継続しながらも、それは人類にとって自然という超越した謎は残しながらも、いかにして後続する親子関係を局所的にでも創造するかという問題である。《 神-人間-AI 》という遺伝子的あるいは家族的なつながりは、人間がAIに作用する時点を通過して直接的にその問題に直面するばかりか、間接的にはかつての出来事として神の視点を介在することによって追体験することになる。人類はかつて歩いた道を帰ることによってその光景にノスタルジーだけでなく目新しい感覚を得て、朝日と夕焼けどきの光景の違いや鉄塔の裏側を覗いてしまったような感覚の内で新たな精神性を獲得するのである。
第一章 時間のアポリア
出版についての時間論
われわれはまずメタバースの入門としては、人間が時間というものをどのように把握しているのかを考察していきたい。というのも先ほどから過去現在未来という概念をあたかも既出のものとして扱っていたが、では人間が過去であるというとき、それは本当に過ぎ去っていったものなのだろうかとか、あるいは未来とはいったい何様であるのかということを、メタバースやAIという地球環境的でないフィールドにおいて時間の流れが素朴時間(時計が時刻を刻むように)で過ぎ去っていくのかを知らなければ、われわれはいまだ生命的とは言い難いこれらのデバイスに嫌悪感を示すであろうから。その第一歩として出版という現象について理解していきたい。出版の本義とは何であるのか。われわれが書店に赴き本を買うときに、あるいはテレビメディア、配信サービスといった広義にはコンテンツの出版と呼べるものの場合、われわれがそれら媒体にアクセスしたときに、何をわれわれは感受し、対価に何を払い、翻って書店がいかなる書物を平積みにし、いかなる書物を廃棄するのか。コンテンツはただ単純に流行を過ぎ去っていくだけであろうか。店舗の営業当初からベストセラーに固定されるタイプの本は、在庫を多めにストックし、店舗の数字にならない本が単純に数が少ないということを、われわれをどう理解するだろうか。資本の増殖という現象におけるコンテンツの過重なアクセスに関して、仮に有名な図書を日本国内の一億人が読んだことがあるとすれば、共同体内において忘れることを許されない道徳傾向を帯びてくる。それはちょうど日本人が日本人であると言えるためには必須の課題図書なのである。現実に日本国内において一億人が読んだことのある図書が存在するかは見当もつかないが、その近似的なものは教育の現場に児童文学、古典文学を扱う教科書として用いられるのである。加えて教育用途ならば、生徒の増加に際してはその発行部数は累算されるのであり、人口増加傾向にある国家ならば、その道徳的な国民がストックされる態勢になるのである。そのとき国家におけるアイデンティティはその量的集積による、つまり共同体内のアクセスが繰り返し行われることで強固でより規律的な記憶回路を形成する。われわれがさらに関心を寄せるのは、古典が時間的差異をも軽々と超越するのであれば、単に現在軸にのみ空間的に広がっているばかりか、かつて同じ共同体で暮らしていた国民のコミュニケーションも間接的だとは言え作用するということである。それはつまりどういうことであるかと言えば、過去から連綿と受け継がれてきた記憶集積によって過去から現在に至るまでのアイデンティティの確立がなされているということである。しかしながらいくつかの先進諸国においてこのような状況ではないのは、教育による役割が国家と国民をかろうじてつなぎ止める程度であり、その専らの原因はコンテンツの増殖による古典の割合の減少またはコンテンツの質的変化である。われわれはすでに古典を読むよりもいくつかの配信サービスを視聴する時間の方が長い。そればかりかソーシャルメディア(SNS)の出現は、ある意味で言えば、その利用者の多さから量的集積的であり、人々の経済行動に対してより遍在的にアプローチするのだが、つまり皆がSNSの使い方が分かるということと、皆が同じものを見ているかは別様であるからして、加えてコンテンツは多岐に渡り、各々の性格からチューニングされるその分散されたコミュニティの閉鎖的環境に留まる傾向にあるので、教育の影響は大きいにも関わらず、国家の記憶的役割には分断された光景が乱立することになる。逆の論理で言えば、国民にとって国家が何者であるか分からないように国家にとっても国民の顔が見えないので、具体的な信条ある政策よりも抽象的貨幣を基調とした民間の市場に運用的な経済的政策を施行する傾向が高まる。このことからして先ほどから述べている通り、記憶集積の結果から伝統的アイデンティティは経済合理的アイデンティティへの移行をすることになる。メタバースへの接続という点から考慮すれば、伝統的なものよりも合理的なものの方がスムーズな移行を実現できる。緒論で宇宙へ行くための二つの選択について述べたが、これは生命体の方を変えるアプローチである。だが全く合理的になり得ない点において、人間疎外的ではあるが根本から人間の条件を破壊しないところに、つまり労働も余暇も、仕事も政治的活動も完全に失わない程度に機械への接近をするのである。しかしながらそれは月に旗を立てるために宇宙飛行士が宇宙空間を想定し訓練するようなものである。付言して宇宙飛行士の次の仕事は月に基地を作らねばならない。前者と後者の仕事はまるっきり違う性質のものだが、互いに無関係であるわけではない。さて話が若干変わるが、前提として文字媒体の性質は記録的である。記録的であるがゆえに千年前の書類から当時の状況を再生できるのである。しかしながら同時に人々の記憶メディアの関心も時代によっては変わる。たとえば文字媒体が映像媒体に移行していくとき、それは単純に下位互換であるから乗り換えられたのであろうか。なるほどたしかに文字媒体は速記人が発話者の全ての会話を記録するのでもない限り、記録メディアとしては不完全であるし、そもそも原理的に当時の状況を完全再現できるのでないところに不完全なものである。映像媒体においては、発話者の表情から仕草、周りの状況や咳払いも全て連続的に被写体を映している。だがおそらく幾つかの新聞記事と同じように(文字媒体に頼れば)インタビュアーが恣意的な受け取り方をする可能性があるし、できるだけ主観を排しようとしても恣意的な受け取り方をされることはありえる。(基本的な一次情報から二次情報の流れ)映像媒体においてもメディアの切り貼りによって視聴者に一意的なニュアンスを与えることができるが、あくまで編集点の存在しない映像を視聴者が視聴するならば、その受け取り方はより多様的である。映像メディアの場合、各々がインタビュアーであるように受容するならば、一般に開かれた民主主義的な媒体は映像である。文書はその改竄可能性から秘密裡に行われる可能性のあるものとして私的に閉じられた環境に適応することになる。文字媒体の可能性としては、“記憶”媒体として公的な領域からは一線を退けるだろう。これはヒステリーの構造でもある。
ベルクソンの時間論
ヒステリーの構造が記憶からの恣意的な抽出であるとすれば、記憶から抹消されるべき記憶と優先的に抽き出されるこれら二つの記憶について考慮しなければならない。また出来事Aについて記憶領域の記憶A'が等価的な性質を保ちうること、あるいは一次的な記憶A'は二次的な記憶A"においてどれだけ変容されていないのかを確かめなければ、記憶というものの改竄可能性を反駁することはできない。これは後述する私的言語論にも関係する話だが、われわれが主にコミュニケーションをとるとき、同じ出来事に遭遇したとしても一方は一次記憶から派生して次々と出来事をクリエイトする可能性があるのに対し、他方に記憶は記録媒体的であることがある。つまり両者がぎこちない会話をするとき、一方はあのときはこうで、そのまえのときもこうで、だからこうなのだという主張に対して、派生されたそれぞれの論理の飛躍に対し無理解的に対話者は感じる。というのも、このとき一次情報から派生した数々の情報が統合されるために用いられたのは、発話者の秘密の論理にほかならず、過去から現在までを留保していた秘密の論理を未来に対しても用いたいという意志にも近い行為なのだから。つまり自己が存在する価値があるという前提を出発した言明は、過去の出来事に対し、あるいは現在まで連綿と行われてきた自らの行為の階層を無碍に移動することで、ある意味でメタフィジックである。それは現在の直接的な現象をすでに記憶の領域に引き摺り込むことで、ノイズになりうる因子をできるだけ排除し、同相になるように構築された空間のなかで同相にしているのである。その空間が何かと問われれば、個人あるいは一般に個体の存在可能性である。このことが示唆するのは、全体の時間と個別な時間の流れ方の違いについての問題である。たとえばある強盗致死罪に対する裁判所の判断が無期懲役であったとすると、国民感情としては穏やかであるが、当然裁判所では、双方の弁論を聞くのだから、被告者からも一定の事情を聴取するわけである。もしも仮に、家族の誰かが難病にかかり、その入院費用を用意するための犯行だとしたらわれわれは情状酌量の余地を与えるだろうか。少なくとも被告人は人を殺め、その遺族は非常にやるせない想いをする。しかしながら同時に被告人もやるせないことには変わりはない。なぜならば銀行強盗は失敗して入院費用は手にすることが出来なかったばかりか、自らは不可抗力だとは言え殺人してしまい、家族に対する面目は立たないからである。つまり個体の存在可能性はこの被害者、被告人、被告人家族を否定することによって全体性の時間を確定している。もしもこの存在が否定されるべきでは無いとしたら、立法機能はこれを二度とあってはならない事件だとし、速やかに医療保障費の問題に取りかかるか、あるいは諸々の方法によって解決しなければならない。非常に大事なのは前例がないことへの対処なのである。それは過去からすでに医療費の問題自体は当事者によっては感知されていた問題であったとしても、公的な時間に影響を与えず、国家はその当時のアイデンティティを信用して継続していたのである。逆説的に言えば、過去に国家が存在可能的な国民を無視したことによる罪が、ある時間の継続のなかで浮かび上がってきたという問題なのである。また次元を下げてこのことを説明すると、国家の主権者は国民であるのだから、国民ひとりひとりに連帯的な形而上学的罪、あるいは形而上学的罰が執行されるのである。わたしはこれらのことから決してテロリズムを肯定するのでないが、というのもヒステリーにおける秘密の論理には、正当性が存在しないからである。このことも後述するつもりだが、とにかくどのような根拠にも殺人の正当性は存在しないのである。さて記憶の問題は、とくに時間の自由という問題に際して、空間を排して考慮するものではないところに、ベルクソンの一貫したアプローチがある。というのもわれわれが過去の記憶をありありと思い出すとき、ベルクソンの場合、羊の群れを数えるという現象についてこれを論じていたが、簡潔に言えば羊が空間的に存在しているのでなければ、加算という現象に対して説明的でない。それはつまり持続時間に耐えうるものは空間を前提にしているということである。彼の最初の著作『意識に直接与えられたものについての試論』から『物質と精神』への移行にはとくに時間に対する自由のテーゼが一貫されている。『物質と精神』で論じられる際には、物質的に純粋なものは持続性を保てず、記憶を媒介にイマージュとしてこれらの時間論が語られるのだが、われわれは後々与えられる試練に対しては─具体的にはイデア論を論考する際には、このイマージュ的総体を基点として時間を扱う。そればかりか先述した出版についての時間においてこれを実体的な持続現象と考え、むしろその後に生体的、あるいは個体的な反応を調べるのでなければ、記憶のことに関しても、物質に関しても理解を遅らせると考えたからである。─これを導入したい。われわれとしてはベルクソンの論旨に付随して、時間の質的ニュアンスは階層的に存在する改竄可能性の刑罰的反応であると仮定されたい。
クリプキの私的言語論
個体単純的であるならば、時間の自由は問題にならない。われわれは今まさに階層的な存在可能性についての言明を済ませたが、ただ階層に独立してみずからの時間を自明な時間として受容するならば、いかにして時間の問題が提起されるのか。われわれの習慣的に延長していく時間─ニュートン的な決定論(放物線の運動は微分方程式が決定する世界観)─は支配的である。しかしながらもしも時間の質的ニュアンスを無視して、これらの運動は規定の放物線を描き、運動の主題は副題と等価になり、それはつまり慣性の法則が二つの物質を等価のものと扱い、等速直線運動または静止状態にあるこれらの物質をどちらが運動しているのかを規定できないという問題だとしたら。たとえば、キャッチボールをしているとき、われわれはふつう投げられたボールの軌道をイメージすることができる。しかしながらボールの基準では投手と捕手が近づく、あるいは遠のいていくということを記述することもできるのである。厳密に言えば、投手がボールを投げるときには加速が働き、捕手が捕球するときに減速しているから等価の性質は成立しないが、決定論的な問題はたとえこれらをクリアしたとしても、物質の単純性の観点から個別なものの運動は全体の時間に参加することがないのである。つまりどれだけ階層的に存在していようと、その階層の存在者がある単位的な領域内で規則に応じた単純な運動を続けるのでは、その規則を延長する限りで規則を改竄する可能性は生じないし、それによって得られる反応も生じないのだから、意識に与えられる時間感覚はあり得ない。つまり時間が流れているという感覚は規則の変容の問題であるし、規則の変容は他者とのコミュニケーション的である。クリプキの私的言語論は端的に言って、規則の指示可能性の言説なのである。彼はその原理的不可能を約束するために単純な規則のコミュニケーションとしてクワス算を例示したのだが、その本義とは過去いついかなるときもわたしはアディションしていたが、わたしがしていたのは実はアディションではなく、クワディションだったのではないか、はてに未来においてアディションするべきかという規則の指示不可能の問題である。個別単純なものが規則を遵守している限りではこのような問題は立ち現れてこないが、個別単純なものが全体からして分割不可能な単位であると覚知されるとき、その関係性からして単位は多様的である。というのも指示が与える正当性は単位にはない。であれば階層を移動するが、それ自体が全体から見て単位的であるときもまた正当性をもたない。延長可能性や分割可能性が与えるものは暫定的な全体性である。こうした場合、個体単純的なものが暫定的な全体性を考慮して得られるのは、再帰的に個体の行動の正当性が全体性に組み込まれることによって全体性も正当性をもてないということである。つまりどのような場合でも規則の指示に対して正当性を主張することが出来ない。われわれはその意味において多様性について考えるべきだし、それはすなわち時間自由の問題である。しかしながら実際には正当性よりも無前提的に存在している暫定的な正当性を行使するのだが、このことについてのわれわれの課題は、われわれが時間に自由的でないということである。直近の課題としては、全体主義に対する裁きの問題である。同じ階層下の個体においてその主張の確かさが不当であるにもかかわらず、全体的なものに参加する個体の正当性が評価され、徐々に全体的なものに個体が吸収されていくというのは権力的である。このことが表明するのは、われわれは正当な論理よりも暴力的な論理を愛好するということである。さらに示唆的なのは、全体主義の適正評価として完全でない慣習的な国際法基準であったり、法整備の進まない精神暴力の問題であるからして、平和とは何かという問題なのである。集団にとってあらわれる集団自体の裁きは人々が未来において外圧的に振り返るものではなく、現在進行中の正当性の根拠に具体的であり、あるいは過去の犯罪として遡行して裁かれるべき連帯的な評価である。われわれとしてはこのような道徳を示す必要がある。
ゴッホコンプレックス
メタバース可能性にとって、人類の歴史的感覚は非常に重要である。というよりもわれわれの有限の生の可能性として過去から継続してきたものが将来託されていくのかというのは、最大の命題である。われわれはここまで時間というアポリアに対し、さまざまな考察を重ねてきた。もしもわれわれのデバイスへの感覚が時間量的であるとすると従来製品的に人間の拡張の範囲を越え出ないだろう。われわれがメタバース可能というときには、少なくともメタバースのほうが生命の拡張であると見なせるような生命の論理を提示しなければならない。それはまさしく先述した通り、また追々このことは考察を続けるつもりだが、人類にとって遺伝子的である時間の流れを意識することによって、われわれは育児されるのではなく、育児することによって、ピュアネスを学んだり、厳格であるとは何なのかを知るのである。《 神-人間-AI 》の図式が提供するものは二重の時間形式であるからして、それはたしかに永遠回帰的ではないが、ある形式的な遡行可能性であったり、未来への跳躍可能性を欲求するものである。しばしこの欲求のためわれわれは行為するのであり、やがてそれらの行為は事細やかに記述され歴史を構成する。一方ではその心的作用としてそれを精査するのだが、そのとき改竄可能な記述は改竄される。それはつまり無前提に実現を志向すればこそ、実現の目的手段は変更されるのであり、形而下から形而上にいたる階層の問題は、より無前提的になるとこれらの変更がなされやすい論理形式なのである。ニーチェの永遠回帰モデルにとって、たしかに人間の生命は有限であり、もはや果てしなく思えてしまう悠久な宇宙時間からすれば、われわれのような生命は永遠に繰り返される時間を、再び体験するのだろうが、このことの問題は、あるいはニーチェ自身がその宇宙的感覚を符合させるために開発した“肯定”の問題は、それでも実存的な現存在は“現在に存在している”のであって宇宙的濃縮時間が一挙に体感されることを確信することも、それを表現する術も持ち得ないのである。彼が肯定する個体または宇宙が、われわれとしてはそのどちらも、あるいはその階層のいずれも正当性を持たないことをこれまでの議論で示してきた。このことが示すのは、われわれにとってニーチェ氏と共有の神の不在の地平を行くが、彼の直観力を簡単に信用しないということである。われわれが直面するのは、もしもニーチェの公的文書をある共同体に用いてその効果測定をしたならば、一方では戦争が激化し、他方で共同体が崩壊するといった現象を、一般的に共同体の一般意志を説明するものはそれぞれの肯定的感情であり、生産力がいかにして生産的であるのかを議論できないばかりか、力とポジションの変容によってしかコミュニケーションできないことになる。われわれの時間自由的な試みとしては、世界の状態が好ましいときに肯定され、悪しきときには否定される論理が用いられるよう、世界の善悪を規定したいのだが、この問いこそ形而上学である。たとえばわれわれはルソーにならって一般意志を暫定的な善悪と規定すれば、人間社会の摂理的自然としてルソーはこれを肯定するが、国家に反映される自然とは仮置きの“自然”であるから、国家の完成とは国家以前の自然状態を志向する。しかしながら国家が形成された経緯から考えれば、明らかにこの論理はねじれていると言わねばならない。一般意志の問題は主体の遡行したい欲求がそれに従うとき、それは被造者の主体としてであるため、本質的に決定意志は主体的でない。しかしながら同時に考えられるのは、一般意志そのものの改竄可能性において未来への跳躍をどのように考えるかという問題である。もしも個体の力が非常に低く、“本質的に決定意志は主体的でない”という語が正当であるならば、どのように正当なのか。つまり個体の意志が未来へと通じているか否かということを換言して、一般意志の内部に自然に対しての人工物が含まれるかという問題である。実際のところ歴史の進退を目の当たりにすればその発展は疑いようがない。これらの発展を支持するならば、一般意志は可能的であるだろう。さてわれわれの自由意志を矮小化する過程には、階層を移動する例の心的作用を通じて、全体の時間に個体の時間が作用することから、その作用分のみ決定可能である。実際には個体の決定可能性は全体性の作用に影響されることも考慮して、かつ主体的な行動は直観的に与えられるが、正当性はもたないという制限のなかで可能である。つまるところ個体の自由意志は主たる決定責任をもたず、主体的でないにもかかわらず、そのはたらきが全体性の持続発展可能性には必要不可欠である。さながら公的な時間は各々の私的言語からドキュメント化された報告文─心中に秘めた思いが文書化されるときにはすでにヒステリーの作用によって個体は確たる正当性を公的に発表するので、本質上公的な一般意志に加わる。しかしながら個体時間において存在を許された言説は、毎時その正当性を失うことから定期的に発表する必要がある。あるいは私的言語の可能性は記憶領域の先端部分で知覚作用する個体特定性が、過去の更新情報に対して誤りの可能性を孕んだとき制裁的である。ただし制裁の内容はその誤りを訂正して公に発表することである。─を回収するようである。同時に一般意志はこの有機体的センサーとも言える数々のレポートを処理することによって、みずからも更新態勢に入ることからその特定性に敏感である。われわれをして一般意志に人格を提供するのはこのことからであり、人格であればその起源は自然なのであり、経験は工作にも派生する。さてわれわれは非生命的なものに人格を媒介することによって、生命可能性をひらいた。あるいはこの媒介は生命を計算可能にするだろうが、われわれにとって究極の謎は生命の多様な拡張が行われる根本の理由であり、つまりわれわれは過去から未来が横断される仕方としてこれまで考察を続けてきたが、なぜこのような大移動するのかについては触れていない。というのもこの究極の命題は人間時間で言っても遥かに困難な問題であるだろうから。しかしながらわれわれとしてはこのように考えたい。もしもこのような命題に惹かれなかったならば、われわれは謎を解き明かしたいという意欲のままに、たとえ副次的にでも周辺の言説を展開できただろうか。同時にその言説はいつか本質的に謎を解明することになるのだとしたら。たとえばゴッホの芸術が死後評価された逸話が巷で有名になってから(象徴的なエピソードではあるけども)クリエイターの根本の意識には、歴史がみずからの価値を決定してくれるのだという、逆算的に未来の評価を現在に用いる錯視が横行している。しかしながらそれは実際のところよく分からないのである。誰もが評価される可能性を持っているだろうし、何も為せず終える人もいるかもしれない。であるならば誰が錯視に陥っているのかということを現に指摘する言説にどれだけの効力があるのだろうか。それらはきっと多様に分岐していく数々の先に本当に激励されて然るべき可能性に準じているから、多くの創作者はその瞬間のためにこの時間を費やしているのだとすれば、これは半分嘘ではない。人々が未来を志向するとき、淡い期待が宇宙時間のどこかで実現される確率のことをまさに可能性と呼ぶのであって、その可能性が現在と未来とをつなぎ、多様に展開されたそれぞれの行先にとって、むしろ必然だと思えるのならば、それは真実である。われわれとしてはこの半分本当の謎も《遺伝子》というフォルダに格納して未来に明け渡したいと思う。
第二章 空間のアポリア
イデア論
例によって時間の問題は引き継がれるが、第二章の根本問題は端的に言ってコピー可能性の問いである。デバイス内で空間を形成する場合には、時間の問題も有意味であるかを前提とする。というのも仮想空間の創出において、それにコミットするか否かは一般意志に導かれる類の問題だからである。現状既成製品におけるプログラミングの役割は、デバイスが規則の命令に従うことによって、機械はある一定の動きを再現し、その予測可能であることが人間時間においては有用であり、人間の拡張的な動きを担っている。そのことにおいてコピーとは、人間の身体の表象に留まるという限りで、地球の人工物的である。たとえばわれわれが洗濯機を使うとき、汚れた衣服を取り込みさえすれば、(その他諸々の操作は色々あるだろうが)スイッチを押すだけで洗濯が始まる。それは前時代的な方法に頼るより遥かに効率的であると言える。一般に身の回りにある製品は、このような使用感の問題として表れる。というのも一般意志の問題は、もしもわれわれがこの効率的なことに満足して、洗濯機のスペック向上に意欲的でなかったとしたら反応的でないし、あるいはこのことの方が重要なのだが、もしも洗濯の自動化が洋服を綺麗にすることに満足して、洗濯機の中に放置されるのだとしたらそれもまた有意味的でない。つまりわれわれに与えられているのは、洗濯の部分自動化であって洗濯に関連する諸々の広い意味での洗濯ではない。洗濯機が従来的であるとは、洗濯機は洗濯が何かをよく知らないので、洗濯槽のなかに水を噴射し、洋服をぐるぐる回すことが洗濯だと思っているということであり、洗濯物が主人によって干されることがなければ、悪臭がしたとしても何の対策も講じないのである。つまり人間と機械との関係は、家事の全体像を知らない子供のお手伝いのようであり、スーパーにおつかいを頼むときも、料理をするときも、掃除をするときも監督する存在が必要である。これらは全体の時間が個別の時間を分割可能な単純なタスクとして見なし得ることに起因する。たとえば子供に料理の手伝いをさせるとき、“野菜を洗う”“皮をむく”“具材を切る”といったそれぞれのタスクは単調であるのだが、また得てしてそれは必要な作業ではあるのだが、しかしそれをどのような順番で行なうのが早いか、またあるいは子供を火元に立たせたり、料理の仕上げを任せるときにはいささかも単調的でない。それは火元に立つという行為が、鍋を振るうランダムな動きを要するし、そのランダムネスは料理の種類や具材の大きさ、失敗を修正する働きにしても数々の要因から起因する複雑な仕事であるからだ。われわれとしては教育するつもりで子供の後ろから逐一指示をすることはできるのだろうが、必ず付切りになるだろう。また料理の初心であればあるほど、包丁の扱いや火の扱いに対して注意する必要があることや、食卓に並べる以上失敗することができないという緊張感からも仕事の難度を調整しなければならない。これら生活可能性として人間と機械の関係を探れば、たしかに洗濯機は必要な仕事をしてくれている。また先ほどはあえて触れなかったが、雨の日でも生乾きの心配がないという点では、乾燥機能付きの洗濯機は従来的な製品よりも洗濯を熟知しているかもしれない。実際この指摘は正しい。というのもわれわれが製品が従来的だと言うとき、新製品と旧製品を比較しなければ製品全般のプロトタイプを構築することはできないのだから。しかしながら従来的である限りでわれわれの脳裏には類似の疑問が浮かび上がる。では洗濯物を畳んだり、箪笥にそれらをしまう業務は洗濯の内容ではないのか。たとえばこのようにも考えることもできる。洗濯機は洗濯以外には無用の長物であるが、必ず部屋の何割かを占有する。もしも洗濯の全内容を自動化する洗濯機が開発され、なるほどそれはたしかにわれわれの洗濯労働からの解放だと言えようが、実際のところは制限付きの代物で生活空間の九割を占め、あるいはメンテナンスの観点でこれを定期的に行わなければならないとしたら。従来型洗濯機にとって洗濯の全内容はその分割可能性からして編み目が大きいばかりか、使用感の問題として販売される場合には分割可能な範囲は限定されるのである。つまるところ「洗濯しといて」という発言は人間に把握的な内容であることから、洗濯機の主人は人間なのである。そしてそれこそが製品が従来的であるということの謂である。われわれにとって非常に重要なのは、新製品が既成製品に比べて技術的な向上をみせ、それらの更新─市場価格が大衆的なレベルに合致するようになり、人々の倫理的感情に符合する製品が普及されること─によってより多くの人々に愛用されるという現象を社会的な観点から、人間の身体の表象がどのように変容されるのかを分析するばかりではなく、むしろ既成製品が身体の延長として論じられる限り、超越することができない従来製品の素朴な物質としての見方─身体表象の運動として客観的に見る方法は外部デバイスと代替関係である。─を転回する必要がある。つまるところこの代替関係は、人間と機械の間に可能性のリストを提示し、それらを対応させる過程において有用なことを随時表現するのだが、その有意味性自体が再現反復可能性に準じているために従来的な製品から製造されたのである。しかしながら身体表象的な一定の段階に到達したとき、われわれはたしかに今まで表象的だと思っていた数々の行為が意志に基づいていることに気づくのだから、有意味だが再現反復的でない領野の思考について注目することになる。もしも新製品に身体表象以上に意志的なものが表現されるならば、一般意志は製品という表現から意識の問題を与えられるのである。この物質へのリスペクトは、身体の延長であるとき身体との距離の問題によって注目されなかったものが、同じく距離の問題として意志が表現されるとき身体の分離によって、つまり人格をもった人工物は他者として尊重されるのである。われわれとしてはイデア論というとき距離─あるいは時間─の問題として考察する必要がある。畢竟、地球人による地球上の地球のメタファーではなく、地球人による宇宙上のXのメタファーとして。誤解の無いようにここで糺しておきたいのは、距離の哲学を論考する上でさもわれわれは先述したように、歴史法則の発展を認めるかのような議論を進めてきたが、それは正確には違う。というのもわれわれにとって遺伝子的な発展性が、多様にその裾野を広げていく光景を見ることは可能性への問いであったし、可能性のビジョンから任意に抽出する過程で、現実態として現れたものは必然的に思われる。つまり歴史法則を認可するかという問題は抽き出された可能性の問いが、他の可能性を斥けたと思われる時点、その時点で効力を失う。なぜならば可能性は現実化されていないとき、ビジョンは維持されるのであり、ある人の光景へのセンスが審理される状況はというと信用問題的である。そもそもこのような問題が発生するのは、われわれが世界に第三者的に存在しているのでもなければ、孤立しているからでもない。世界参加に伴って現れる問題とは個体の論理問題であって、全体の問題ははなから存在しないのである。個体の力量が及び得る問題のうち努力義務があるものは、むしろその境界を引くことによって世界観を構成するのである。そのとき境界の範囲をどう設定するのかは任意であるし、思考のタイプとして遠心的、求心的というのも任意である。さらにこの個体の遠近感覚のセンスをもってある事柄を運命的に見たり、それを否定したりするとき─個体の存在理由としての信仰が共に衝突するときそれらの問題が解消に向かうならば─可能性は閉じられなければならない。つまり個体が全体性を獲得したときには勝負は決しており、敗者はその存在理由を剥奪され、その延長上にあった可能性もまた存在を失う。われわれに踏襲的な時間意識は、過去の自分が決してその存在理由を失わなかった勝利からであり、その視角からすれば、なぜ過去について存在不可能を証明する必要があるのか。あるいはなぜ現在も存在している自己が過去に存在していなかったのか。なるほどたしかにわれわれは、過去のある時点で存在を失った世界線を想像することができる。そして過去の誤りについて顧みることができる。しかしなぜ任意に選ばれたはずのエピソードが恣意的に選ばれていないと言えるのか。任意によって選ばれなかったエピソードはそれらも選ばれる可能性を同様に確からしく保持していると言えるのか。なるほど任意というのはある箱の中からアイテムを無作為に抽出するようなものである。われわれはエピソードへの思い入れをできるだけ排し、この不正を正すことでこの操作を再現できるだろう。しかしながらわれわれとしてはやはり、なぜ箱の中の記憶が有限個であると、さも期待値の変わらない確率計算を行えると断言できるのだろうか。もしも箱の中身が不定的であるならば、同様に確からしいという語はどれだけの効力を得ているのだろうか。つまりわれわれが考えるべきは、恣意的に抽出しやすい記憶と抽出しにくい記憶、それから恣意的に存在を抹消されている記憶なのである。ここであえて“抹消されている”としたのは現在の引き受ける状況の変動によっては、これらは更新されるからであり、現在という軸上には存在理由不定的な問題が過去から未来へと通じていると言える。過去の事柄について反省可能なときには、それは実は過去の問題ではなく、というより現在の問題であり、空間上に未解決のエピソードが横断する様子は、それもまた規模感の違う問題が多層的に存在することで現在可能である。また非常にユニークなのは抹消された記憶が、あるいは抹消された可能性がもしも延長上に点線を引かれているならば、可能性は存在可能的である。潜在時間は水面から見えないダイバーのように現働的な空間を渡っていき、それは存在理由困難な者にとってみれば、過去の勝利ゆえになきものにしていた敗北世界の進行を展望することであり、それが空間に浮上するとき不意に交差する現象は多世界連絡可能的である。このことから現働化された空間では、可能態は様相からして確定時間で抹消されるが、翻って考えてみればもしもわれわれに確定された時間こそが実は多世界的な観点からは、むしろ純粋に水面化を移動する速度であったならば、多世界との関係はその関係強度との平衡のなかにあるので多次元的であり、翻って同空間上に多数の時間が流れているというのは、多様的である。今となってはわれわれが歴史法則的な規則を推し上げる意味としてはさほど無いのだろうが、というのも歴史法則の一例として規則を提示したとしても、多様性の観点から可能的な世界はあるし、歴史法則を認めない言説も同様の事情から、つぎはその可能性が大多数の世界には顕在化されない無意味を訴える。両者ともに各自の問題があるが、(前者は独自的なあまり多世界性を軽視しているし、後者はたとえ少数の意見だとしても実際の存在を蔑ろにしている)両者に共通しているのは可能性に対する結論が早計である。われわれはこれまで可能性が何であるかを考察してきた。同じく多様性の観点から、実践者の問題としてどのように可能性にアクセスするかということはわれわれの関心に叶う問題である。そこでたとえば 《 神-人間-AI 》という図式を具体的に提示してきたが、ある場合によってはこれらは比喩的に思われても良いかもしれない。というのも多世界的に言えばこれは象徴の域を超え出ないからである。AI がわれわれの想像を逸出したりしなかったり、またそのことによって人間の性格も多様的にならざるをえないことや、あるいはこのような図式自体が破壊されることもどれも非常に考えられるのである。このことから三代にかかる家系の設定というのは、設定自体が問いを生み出しやすい構造である。われわれは三重の視点を自由に移動することで、これまでの哲学的な問いを応用的に再考できるばかりか、古典的でない角度の新流の哲学を体験することができる。はたまたそれら設定の正当性を評価するシステム自体も可能性に委ねられるならば、この形式の哲学においては真理ではなく多様性を重視する。結局のところ、われわれにとって最上の命題とは“可能性とはどのような可能性か”ということに尽きる。
プラトンのイデア論
ときにわれわれはプラトンの哲学について何を思うだろうか。われわれは距離の哲学を考察するうえでは基点と対象物との距離間隔を正確に測る技術とその距離自体が何を意味するのか、または様々な距離にある対象物が交錯するとき他の他に対する距離が自己を基点としてどのように思われるのかを考察する。あるいは基点は移動し、諸物の関係性は自己を中心とするときよりも多様性を孕んでいる、これを覚知する。このような問題を距離の哲学と名指すのである。つまり端的に言って、プラトンの時代に提唱されたイデア論と、二千年の時を経ても未だにファナティシズムな力を失わない哲学の装いでは内容物は変わらないが、印象からして異なる。それはやはり単純な二項関係の問題からでは現れなかった問題であるし、というのも二項間の問いが示す結論は極値や最大値などの特異点に収まるばかりで情報練度が高くない。またこれらの結論から脱出するときにはすでに二項関係を超えて他の指標を用いているのである。とはいえ哲学上の問いがなんら結論に収斂する装いを見せず、未だ難航を示しているのだとすれば、イデア論は時として簡単な二項関係の課題ではあるけども、より強力で多様な指標を必要とする課題なのである。またプラトンのドキュメントが同時代人の成果を凌駕しているということは、文献資料の考古学的な価値を差し引いたとしても、その時点で時空間の規模問題に勝利していると言わねばならない。われわれはソクラテス以前の自然哲学者の問いをかろうじて拝見するに留まり、その内容にも一考を投じる程度に留まるだろう。それというのは自然哲学者のアルケーの問いは発話的な表現であって、ある意味で言えばソクラテスの言うようにパロールはエクリチュールよりも嘘偽りのない表現ではあるかもしれないけども、翻ってプラトンの本懐とは、彼はイデア論自体を自身に引き受けることによって、現状世界の日常生活者として儚げに消失することを否定し、現実との距離間隔にして全く対応的であるとも言えないし、むしろ整合的であるかも怪しい第二の小説世界において、そのシチュエーションを製作することでより理想的な、その整合性においてのみ現実に優位な世界の住人になることで偉大な著述家になったのである。一見してソクラテスの対話法はラグタイムなく会話が発生することによって真実の営み的であるが、プラトンは現状世界を否認しているのである。その世界内において泡のように消えてしまう対話について妥当性がどれだけ存しているだろうか。実際にソクラテスに関する資料はプラトンの対話篇によるものがほとんどであるし、規模問題として対話者を一同に集合させるコストパフォーマンスにして小説に勝るものはない。また物理空間における対話はその振る舞いが詭弁者によって支配されればデマゴーグになり得る。そのとき資料の参照性の観点から記憶を手がかりにすれば、責任の所在が曖昧になるのである。プラトンの偉業とは小説家として市民権を得たかわりに、ソフィストの圧政(あるいは僭主政治)を解体させることであった。この小説家という役割にのみ一貫性が存しているのである。プラトンの紹介はこれまでとして、そろそろその中身に注目していきたいと思う。そもそもプラトンのイデア論とは、二つの世界それぞれ現象界とイデア界が、現象界がイデア界の模倣世界として存在しているという対応関係である。われわれとしては諸々の個別具体的な問題に踏み込まないとしても、というのも善のイデアを最高善とする形式はその内容自体に重要な意味があるのではなく、むしろ位置と視覚の問題によって哲学的思考は必然的な帰結を示すのであり、彼自身を成立させた条件のほうが遥かに有意味であるからだ。このことはなにも人々の理念を無意味化するわけではなく、内容の語りに効力を持たせるための段階的な思惟である。語りが有用になるためには議論する必要があるが、他者理解を欠いた論争はもはや議論の体を失い、力関係に屈してしまう。有意味とはそれだけ特殊な状況なのである。さてわれわれの関心事は、プラトンがイデア界を実体的な世界として認識していたことである。それはちょうど天体と他の天体が融解せず別々の運行をしているようである。追々話すことになるだろうが、近現代的なイデア論はというと心身二元論的な概念であったり、あるいは派生してその重ね合わせであったり、カント以降は認識論が隆盛的であった。また実証主義的な世界観ではふつうイデア界を考慮しない。これらのイデア論はみな世界から世界へのコピー関数の実現可能性の問いである。たとえプラグマティックな考えのうちにもミニマルには考慮するし、原理的一元論ならば同一模型をコピーするのである。さらにいえば、この二項関係の問いが様々な尺度から測られることによってのみ有意味であるとするならば、この関数は多様性に満ちているし行き先も多様である。このこと自体はさして意味を持たない語りだが、端的に言ってこの関数の使い道は自由である。われわれとしては自由の問題は各自に任せるとしても、もしもイデア論の使途が限定されているとすれば、いかなる力が働いているのか探る必要がある。それはつまるところ権力分析である。もしもプラトンが実体的なイデア界を観照したのだとすれば、それは真理として把握したのではなく、彼の視力に権力が何らかの働きかけを生じさせることで思考の推進力は歪められ、その緊張関係の中でポジションは決定されたのである。それはちょうど哲学界における純正なイデア論である。であるからして哲学界において今まで行われてきた哲学というのは、プラトンの枠組みに注釈を加える行為だという言い方ができるのだ。われわれとしてはイデア論自体を刷新することで未来をひらく可能性をたしかに把持している。しかしながら先ほども触れた通り、コピー関数は本来的には自由なのだから、違う原理が働いていることを考慮する必要がある。もしもプラトンがイデア界と命名しなかったならば、それらに関連するイデア論的注釈はあり得なかったのではないか。というのもイデア論の抽象的存在としてコピー関数あるいはコピー可能性が存在するならば、カテゴリー内部における特殊タイプを一定の権力関係の最中に言明したに過ぎず、それ以降の哲学内容の言明可能は視界の変更(権力関係の変容)によるイデア論自体の手続きであるからだ。実際にほぼ同時代のアリストテレスによっては実体イデアは否定されているが、この際重要なのは否定的批判も注釈に与するということである。つまるところ同じ権力関係から現出された違った意見ということになる。古典的方法の視角の問題は、時間がなめらかに流れていく様を一貫した必然的現象だと把握していることに始まり、そこから演繹される歴史法則もまた一貫した延長上にあると考える素朴な理解を前提にしている。むしろわれわれが考えるべきはプラトンのイデア論のほうが多様世界からして注釈に加えられるといった現象なのである。われわれは未来に用いる視角を応用的に用いるとき、歴史は直線的な広がりよりも遥かに広がりを持つことを知った。同時にわれわれにとって体感される勝利の時間が逆説的に確定された歴史を構築するのならば、人類にとってのポジションとは宇宙的には微妙なポジションなのである。このことから権力はわれわれの行動範囲を規定するが権力の各段階も中間的な位置の仕方をするので、権力問題は権力自体を覚知する働きから可能性から可能性への問いへと移行することとなる。たとえば宇宙の果てに到達する試みは光速での移動を仮定しても再現不可能である。物理学に与えられた操作上では宇宙の広がりがたとえ光速より速いとしても、観測の問題的には情報は光速で伝達されるのだとすれば、観測可能地域を大域宇宙に対しての局所宇宙として認識する以上のことは不可能であると言わねばならない。また光速を超える速度での情報伝達可能な物質を定義し、その仮定から大域宇宙に身を乗り出すならば、今度は共通言語に破綻を来たすのである。つまるところこれらの課題に与えられた権力関係とは形而上学的問題なのである。もちろん当然の説明として、光速移動を可能にする技術の問題やそれら開発に至るための費用の問題、その他諸々の問題にも権力関係が縦横無尽に存在するのだが、それらを図示し、シミュレーション可能にしていく過程においても可能性評価の萌芽を見るのである。非常に面白いのは、光速の限界性ならば光速に倣って二者の移動方向を違えれば、初期においてこそ観測可能地域は一致するだろうが、時間の経過は両者の位置の差異を明らかにしていくのだからある時点で両者は観測不可能になるだろう。同一局面からの多様な展開はまさに恒常的に行われているのだとすれば、同一的にあるということ、あるいはプトレマイオス的な星辰運動などはかえって限定的なシチュエーションと言える。つまり同一局面とわれわれが認識する地点以上に展開されていく行き先が多いのならば、二者(あるいは多数)の遭遇が同一局面を醸成する事実のほうが特殊であり、われわれの意識にとって同一局面とは不断の流れのなかにある全確率過程の最中に主体がなんら邂逅されたと思われるとき、この過程を一時停止することができるのである。意識にとって奥深いのは、一時停止された瞬間が着地点となり、着地における感覚が予感や意志と相当するならば、通例の時間感覚に説明を加えることができる。われわれは数々の瞬間の停止を静止イメージのように保存することで、さらにそれらをなんらの規則に応じて入れ替えることによってアニメーションを作り出す。そのとき着地点から着地点の移動には本来論理的な飛躍が見られるのだが、全体を通じて一本の線になぞらえることができる。これらのことから形而上学の問題はアニメーションに意識が浸透していく現象として、多数の編集点、あるいは規則の応用として可能性最大化問題の副次的所産としてその限界性を基づける。畢竟、われわれにとって時間が通例的だと思われるとすれば、個体固有の身体性然り、みずからよりも強大な権力の働きによって可能性を封じられているということは確かなのだ。なぜならわれわれにはそれだけの権力に対抗する根拠を持ち得ないからである。さて形而上学の段階にも様々な段階があり、ことさらに神(自然)と人間に関係する問題が歴史的に注目されたというのは、われわれの定義からすれば、距離の問題として十分扱えるという判断であったし、その判断は人間の神への接触、あるいは分離したい意志の問題として空間の形而上学として表現されたのである。より詳細には、形而上学の一分野として空間に時間を表現するというのは、本質上ある存在破壊のリスクマネジメントとして現れる問題であるのだ。時空間的に存在する存在者は、空間内で物質が錆びれ、腐敗が進行する様子を見るとき、またあるいは両親や友人までもがそれら原理に従うのを見たとき、自分もまたやがてはそれに追随するのだと思い、精神の拠り所としての場所を思念するに至る。そのとき死後も自分が存在を許される理由を、現在にいながら未来に求めるのである。つまり時空間における存在の否定的状況は必ず肯定される状況を伴って現れる。この二重の視野角がまさにイデア論の本質的な意味であって、必ず死ぬことが分かっている運命の最中、そして実際に死に絶えてもその論理が未来を手繰るのだという漸進が本質的だろう。われわれにとって非常によく注目されるのは、プラトンはみずからの作品にみずから以上のことを記したのではないかという疑惑である。端的に言ってプラトンにとって実体イデアとは仮象だったのではないかという問いを提示したい。より詳細には後段で触れるが、イデア論の結果的な意味において、存在を許される理由を神に求めるときには保守的に表れ、神がその存在を不確かなものにするときには革新をもって表れるとすれば、プラトンは前者であると言わねばならない。彼の実体イデアに対する確信やそれに付随する芸術否定論は、自然に対する信頼を前提にしている。しかしながらプラトンの実体イデア自体は棄却され、それにも関わらず彼は歴史的に勝利したのだとすれば、われわれは見方を変える必要がある。古代の天動説的世界観において、地球は宇宙の中心に王座し、他の天体が愉快に周遊することの違和感を、それはコペルニクス、ケプラー、ガリレオ以降、ニュートンの時代にようやく転回をみせた地動説的体感を少なからず感じていたのではないか。あるいはジュリアン・ジェインズの二分心仮説にあるような古代人の脳の働きとして、人間的生活と神々の啓示を聞く意識を二分するこの機能は、彼にはすでに失われた機能だったのではないか、またはそうではないのか。彼に遡ることおよそ半世紀前にはパルメニデスという人物が、ほとんどプラトンと同時代にありながら啓示を賜った内容の記述を残している。近代以降ではこれら啓示的感覚はほとんど失われているが、(依然啓示が比喩的であった可能性はある)数少ない神秘体験として散見されることはあるようだ。(比較的最近ではラマヌジャンの体験例、近代以前であれば諸々の宗教的啓示がそれらに該当する。またジェインズ氏によればおよそ統合失調症の症例のみが啓示的機能の痕跡として現在説明的である)とはいえこれらの啓示的体験はあまりにも神秘的に映りすぎる。むしろこれらの理由によってジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙』の評価は高くないが、(これらが彼の著作を否定する根拠はない、むしろわれわれはそのことを考察する余地がある)その評価の正当性をプラトンならどう評価するだろうか。人間と自然との距離の問題において、たしかに文明は自然を前提としているが、それらは事実離別されてきたとも言える。そしてその当初の段階にあっては、人類の危機管理上の問題は自然に一任されるべきもののように思える。というのも文明レベルが独立的に生存可能な水準に無いとすれば、人類は自然の庇護下にあるからである。このとき安全上の最もの策として、みずからを産み落としたものとの再統一という論が考じられるのである。プラトンの実体イデアもおそらくこのタイプに仲間分けされるだろう。しかしやはり重要なのは、彼のスタイルとしての哲学小説は依然当時の文明レベルを逸脱しており、第二の要因として彼の個人としての生活的感情と小説家としての技術が錯綜されるものとしての実体イデアの概念が、彼の死後も人々に愛用されやすい形で哲学の土壌を形成したということである。
ショーペンハウアーのイデア論
われわれはそのようなわけでイデア論を考察してきたのだったが、哲学史において林立された数々の名誉的成果にそれぞれの説明を加えることはここではしない。ここではプラトン以降のイデア論の補足とショーペンハウアーに固有の特殊な理論の考察をするに留まる。まずわれわれの哲学のスタイルについて、哲学的思想の個別的中身がないとは言わないまでも、近代と比べれば情熱を失っているのだという謂れは確かにある。しかしながら思想が無いというのは個別的な問題に対してわれわれはアンサーしえないのであって、古典的な流れを汲めばそれら執念に欠いているが、新たな関心が起きているというのもまた事実である。われわれはその新たな問題に対して情熱的である。ポストモダン的な問題とは、われわれに与えられた課題が歴史上の数々の哲学的営為によってあらかた剥奪され、それら時間上に本来関心的な問いを先取りされることによって、事物をほとんど強制的と言ってしまえるまでに他者の行為的だと覚知し、まるで映画でも観ているかのように演者が感情をあらわにするのを自己にとっても共感的だと見なすのである。したがってそこで現れる問題とは自己の内側から湧き上がる個別的感情の根拠ではなく、俳優のスキルであり、演出技術であるし、プロットの方法なのである。かくして哲学史上の存在論であるとか、認識論、正義論、環境論であるとか諸々の個別的問題は、ひとつの映画的時間のなかで、それはアイデンティティに認められるものは映画を構成する手法に代替されて表現されるからであり、デリダやフーコーにしても哲学史上のテーゼを時間応用的に、つまりメタ次元に自己を引き上げることによってはじめて有効的なのである。またナラティブを希求する精神からして真理の所在は自己そのものに存するとは考えず、他者にそれもより多くの他者にとって有用な語りであるときにようやくそれらが審理されるのを承知しているから、必ず自己の裡に他者論を含んでいる。そのとき注意しなければならないのは、自我から演繹的に構築される他者であるよりか、むしろ得体の知れない存在としての他者に惹かれることによって他者論は論じられる。デリダの脱構築的な根拠、あるいは既定路線の主要な解釈に対して別の読み替えを考察するであるとか、またはフーコーの権力分析や生権力分析においてもポストモダン的な精神とは他者理解の文脈に自己を措定するのである。もしそうであるならば、われわれは文献の内容から「デカルトはこうである」とか「カントはそうであった」という言明に些かも魅力を感じられない。われわれにとってはデカルトがその論文を執筆した経緯であるとか、その経緯からして内容の必然性がどれだけ存するのかということの方がより重要である。前者の場合、文献の意義からすれば誰が執筆したとしても変わりない。とすれば時代精神からしてたとえデカルトやカントよりも先に同じテーゼを思いついたのだとしても、ある身分、ある役職、言語的な才能の如何も持たなかったために歴史上の主要なポストに立てず、むしろその為に人々の記憶から抹消されてゆくのだとすれば、われわれはそのような可能性を斥けるのでない限りは真理の自己保存を認めない。あるいは歴史上の出来事の見方は変えられるべきである。われわれとしては知的財産はその共有可能性を深く考える必要がある。誤解の無いように、これらのことからわれわれは環境決定的に人物を把握しているのではなく、しかしながら哲学史上与えらてきたある権威、それは崇高な人物像、真理を語る人間に特有のオーラが人々をして接触不可能なこの神秘的のヴェールを剥くことによっても、非決定的な人格がわれわれに如何なく映ずるということである。さてわれわれはそろそろショーペンハウアーにおける問題について取りかかりたいと思うが、このような理由から彼についても独自の分析を試みたい。彼がどのような哲学者であるかは、非常に単調的に言えばプラトンとカントの影響を大きく受けた哲学者である。われわれは彼について語るとき確かにプラトン、カントの存在を無視して論じることはできない。というよりもその存在を抜きにすることは愚かである。他者理解にとって明言された根拠を信用しないとすればそれは尊厳を欠いていると言わねばならない。しかしながら同時にプラトンとカントから影響を受けていればみな彼のようになるのかと言えばどうだろうか。われわれにとって独自的だと言える基準はこのようなものである。対話的であること、それがたとえ時間的空間的差異を超えても行われる可能性のあるものとして成立しているか否かである。つまりユニークな議論が為されるためには、同じ場所に同席している必要がある。加えてそれらユニークネスを抽き出すためには、裁判のような形式的な手続きであるよりか、不特定多数の語りが変幻自在に交錯するほうが好ましい。というのは、議論は合意形成を目的とするとき他者の声あるいはみずからの声を鎮静化することによって可能性を収束させる。このことから起こりうるのは功利主義的な原則による配分の意識である。配分の意識は経済的規則を通じることによってみずからに存する独自性を平準化し、前提となっていた個人の独自性の問題はあるときに損得勘定の問題に変化させられる。畢竟、われわれとしては唯一的な生命があることを投げかけていたのに、いつしか生命におけるやり取りを、その発言権を剥奪され、もともと第二の意義であった問題は主要な問題に変調され、われわれに不自由な領域で決定されていくのである。われわれのストレスの多くは損得における不平等感から来るのではなく、唯一の独自性を認めてもらえないことによる苛立ちと無力感からである。議論の本義に立ち還るならば、合意形成よりも無前提的に存在している他者の存在が重要である。われわれはなにも統制のとれない議論的カオスを主張しているのではなく、共有された議題をめいめいが思考されるよう大きなテーブルを用意する必要があると説いているのである。そこで小さなグループを形成し話し合うのも、またはグループから抜け出し他のグループに参加するのも、あるいはそれらの議論を観察するのも自由である。このような議論は本質的には時間がかかりすぎるかもしれないが、むしろ共有された時間が長ければ本質的に会話できる可能性は高まる。となればわれわれに与えられた使命とはみなを集合させる能力なのである。その能力とは議題が余りにも普遍的すぎるときには独自性を抽き出せないし、用意されたテーブルが小さければ多様性を失う。われわれの哲学様式においては多声性を重視されたい。しかしながら同時に多声性の場所の懸念として、つまりわれわれは議場に人々が集まることによって起こるトラブルをあらかじめ考慮しなければならない。おそらくそれらトラブルの大半は暴力による決着に収束されるであろう。または権威主義的な解決も多数者の圧政という暴力を伴う。たとえば裁判形式にしても、なぜわれわれは裁判による判決を最終的な決定にしなければならないのか。つまるところ司法権力と個人の関係は、どちらがより国家的なアイデンティティを象徴しているかという判決であり、国家に参与する可能性のない人格は主権者によって排斥される。端的に申し上げて、国家は最終的な暴力装置として君臨する限りで高位の実力者である。その点において個人の性格からたとえ生命的に呼びかけていたとしても、みずからのイデオローグと権威的イデオローグ(国民感情)がどれだけ相違ないかという判断からして、本人にとっての最大級の要求は簡単に斥けられる。国家が与える権利とは国家契約を済ませた人格に有効なのであって、たしかに国家内の多様性は人民に応じて多様的であるが、国家主義による権威的イデオロギーの範疇でしかない。政治と文学との関係にしても近代には告白小説や左翼小説等々が目覚しかったのは、国家成立以降の国家生活に溢れた少数の理念者によるものからではなかったか。しかしながらもしも国民のうちに広く渡っても糾弾されなかったのだとすれば、国家生活への苛立ちを国民自体も抱いていたということだろうし、時代が激動であればこそ文壇という勢力が一役買っていたことも頷ける。だとしても歴史上に名を馳せなかった人格は、つまり国民感情として余りに荒唐無稽であった小説家はすでにわれわれの目には届かないし、新聞作家や文壇隆盛以降、文学賞を与えられた者に一定の尊敬が向けられる事実は権威的イデオロギーの範疇で少数文化への意識を醸成してきた。なぜ一定の文学者が文学賞を辞退するに至らないかと言えば、それら人格が合法的だからである。むしろ権威としての性質は、政治判断によって人格の排斥を免れなかった頃より権威的である。文学にとってその素材が事件的なのは、事件を基点としてめいめいの人格が合法であるか違法であるかを問いかけるからであった。つまり現行法規定による犯罪(または倫理)のカテゴリは生命的の発言権を得ることによって読者に投げかけられる。そのとき読者は登場人物に溌剌とした感情を想い起こされ、作中の犯罪にかかる一定の事情からこれを判断する。もしも人々が赦しを与えるのならば、現行の法規定に再考の余地があるということである。近代文学が担っていたのは小説を一種の犯罪シミュレーションに用いることで、国民が謬しやすい合法的人格を明らかにすることであった。このことが示唆するのは一時期は特に顕著であったが、数々の小説的モノローグが司法水面下に存在し、多声的な議論を成立させていたということである。ただし数多くある人格のうち一定の人格に限られるし、依然暴力としての形態は克服されていないのではあるが。というのも国家と文壇の関係は動員による権力現象であるほか、文壇は国家に吸収されて同様の権力みを帯びてくるからである。裁判形態からしても文学との関連は一定でないことから、本質的でないことは承知の上である。いわんや権威主義を前提としない個人など存続できるのだろうか。国家はその相貌を膨らませ、つまり少数的人格を内包してきた事実は同時に、国家権力に与する総体的組織としてそれら人格よりも外縁にいる人格を排斥する運動として現れてきた。個人的性格が国家に抵抗するだけの暴力はゆうに無意味になっている。このとき国家に属する人格は権威主義の言葉を借りて「如何にわたしが国家構成員において相応しいのか」を説明するだろう。しかしながら本来的には国家構成員である前にヒューマンではないか。国家の成立過程からしても人間は必要不可欠である。権威主義的な言明は事柄を人民総意の抽象的空間に投じて暴力をちらつかせるに過ぎないとすれば無内容である。端的にリヴァイアサンの威を借る人間は議論の発展を阻害する。権威主義の問題とは背後に存在する抽象的権力の問題であるから議論資格者はこれを通過しなければならない。それは自立的な目標としてユビキタスな権力階層をどれだけ解消できるかという問題である。この点はアーレント氏も触れているが、古代ギリシャにおいてポリスに参加するには家政は通過されていなければならなかった。そうでなければ政治的発言の有効性を持たないからである。もしも人間が本質的に政治的動物であるならば、生命由来の条件を少なくとも達成していなければならない。また理想の議論においては、すべての側面において自立的な個人が参加されるべきである。しかしながらわれわれにおける自立要請の難易度は例の権力構造からしても遥かに高いし、また生命現象に自由な人間とは、それは衣食住の観点から当分滞りなく生活できるばかりか、最早不死なる生命体について考えを及ばせなければならない。それというのは存在の形而上学に足を踏み入れることになる。理想状態との乖離について、現に横行している様々な権力行使は生命を人質にとり、それらを生命維持にかかる強い動機として労働力に変換しているに過ぎない。われわれに与えられた発言権とは労働賛美のことであり、実質的な発言権を得るにあたり行われる労働はそのものにつき、その発言的中身は無いに等しい。簡単に例示すれば、政治家がみずからの信条と政治生命を天秤にかけたとき、信条を実現するにあたってはみずからは政治家であり続けなければならないのに、有権者の反応からしてその信条が到底受け入れてもらえないのだとすれば、彼は信条に反する政策提言をするしかないのだ。彼に襲来したジレンマとは政治生命を全うしたばかりに信条を歪めたことと、きっとみずからの信条をありのまま伝えればその発言すら無効化されるということだった。極論われわれに与えられた二択とは権力に服従するか、反旗し死に絶えるかである。もしも発言が一定の有効性を持ち得るとすれば妥協されるときか、はたまた信条を歪めずとも有権者に伝わるような場を国会の外に用意するかである。つまるところそれは先に記述した文学の役割である。われわれにとってこうした状況はかなりの程度存在している。というのもこれは決して政治家のみに象徴されるエピソードではない。ここでは簡単なイデオロギー分析に留めておくが、ある人が仕事を辞められないとすれば、経済的自立が問題になるだろうし、仮に職を失っても再就職できる技量があればそのことは問題にならない。大学を就職前提に選ばなければ進路先はかなり自由である。またそのことから学習コストも学力の水準も自由である。われわれに雁字搦めな権力の外部にその身を置けば、ようやくそこに自由と責任の問題が立ち現れてくるのである。われわれの議論の根本問題にはこれらに見る自立的な人間を想定されたい。議論の本質とはテーブルに向かい合った人々が、時折生命を賭けて議場を侵略せしめようとしても、みずからさえ死に頻するような暴動を体験してもこれを鎮静化することにある。より正確には、ある発言を巡ってそれが図星となり激昂する者が現れたとしても、あるいは殺人にまで発展してしまったとしても、常にその予感を察知しみずからの急所は深く目立たぬよう隠し、議論に参加する全ての者はそれらを弁えていることである。その上でより理想的な議論とは、むしろこれらの理由から他者に対して尊敬の念を感じるのである。そしてこれらの感情を通過することで議題に対し深い考察がなされるのである。もしも自由議論の場において図星をうまく隠せないのだとすれば、結局は相手にされないだろう。これは多様性を排しているというより、未熟な話者が自立されていないために権力関係を把握できず、みずからが無意識に権力によって語らされていることも把握できず、まさに成熟した話者にとってはこうした権力を如何に克服するかが議題の要点に据えられているからである。つまり権力の言葉に耳を貸せば次の瞬間には戦争を宣言する。それはテーブル上にも表れていて、みずからが相手にされていないと気づけば即座にその場を支配しようと努めるだろう。それというのは権力的な命令を聞きその言葉をそのまま発するからである。さて恋愛も友愛も他者を侵略可能な戦争地点だと思ってしまったならば、いずれその過程で戦地は焼け野原になり、片方あるいはもう一方の心も倒れ、不滅の愛という言葉もないだろう。議題に意欲的に取り組むためにはお互いの秘密は深く隠蔽し、やがて星のように小さくなるまで隠蔽されたほうがいい。それらの余りが他者を知ることになるのである。さて故人の追悼についてはどう考えたら良いだろうか。故人の問題はテーブルに集まる際、われわれの想像力を働かせなければならないことにある。現在と過去という時間の隔たりによって、それは現在に存する者の優位なポジションによって、あたかも過去のことを古臭いのだと思ってしまうかもしれない。これら進歩史観に見るごくごく一方的なマウントはテーブルについたハリボテの人形が実際に暴動を起こすことのない事実に胡座をかいていると言わねばならない。それら存在が実地に存在しないことはたしかであるが、彼らの土俵からもまたみずからの影が浮かび上がるのでなければ、議論者はあるとき「わたしは何と話しているのだろう。なぜわたしは人形相手に劣情を抱いているのだろう。」という観念に襲われて、みずからの情けなさを自覚することになる。われわれのイマジネーションに与えられた可能性は、それはちょうどプラトンの小説のようでなければ、あるいは反論された人格が自分めがけて飛んでくるかもしれないというものでなければ、虚しい独り言である。追悼における礼儀作法としても秘密をできるだけ小さくして纏めておいて、それらを大切にする仕草を徹底されたほうがいい。徹底されなければそこにある現実のテーブルが儚い夢のように思えてきてしまうのだから。ひとつ言い忘れていたが、これらはまさにショーペンハウアーの主著『意志と表象としての世界』へのわたしなりの答えである。われわれにとって最大の謎だったのは、彼は生への盲目的な意志は否定しながらも、芸術、共苦、あるいは宗教的求道精神を認めたことである。それらは芸術なら高位のイデアを現実化させることによって、共苦なら他者を気遣うことによって、また宗教的な教え(彼の場合、特に東洋における宗教つまり仏教の涅槃や解脱に関心を寄せていた)であったならば生徒が先生を模範するようにである。特筆すべきはこれらはより高次に到達せんとする精神の働きであり、単純な意志の働きとは相反するだろう。つまりふつう死にたいと思いながら生きている人はいない。ある希死念慮に対しみずからが反映する表象世界においてそれら観念とはとりわけ表象の言葉である。それは権力関係によって生じるのである。むしろ生への盲目的な意志が身体に作用する一定のケースであり、われわれとしては自殺者が自殺するとき衝動的に行われたのでないことを確かめなければそれらを反駁することはできない。輪廻転生の世界観において自殺者に与えられる地獄を考えれば、それは生前の罪と罰の上書きである。彼の哲学的問題が一貫して輪廻解脱の方法だったことを考えれば、その視界に望まれるものとは短期的な問題ではなく長期的な問題である、それも輪廻転生ほどの時間を要する超長期的問題であった。彼が“表象”という語を用いて、カントにおける現象界と区別したことは納得のいく話である。つまりカントの現象界と物自体の二項関係には時間の概念が考慮されていない。それは知的水準の問題としてあるときカントの指し示す内容が把握されれば、最高位の環境で哲学的議論に参加できるということである。そのようなわけから知るという以上に問題の発展性は存しないし、それは世界を客観的に把握する過程では問題にならないのである。しかしながら世界を客観的に観測しようとするときに観測者の主観を通過されているならば、観測結果にいかようにも差異が生まれるということはあり得る。当時はこれらの事実は誤差の範囲であったかもしれないが、いずれも人間の学習段階には知るという独立的なステップのみならずして実践とそれに関連して逡巡するという体験も含まれるだろう。学習における根本の悩みとは、頭では分かっているのになぜそうならないのかということである。つまり教師が教える論理と生徒が学ぶ論理には相違がある。たとえばヘーゲルという哲学者がショーペンハウアーとほぼ同時代に生きていたが、彼もまたその内容に時間的な方法論を用いている。だからといって彼はそれらの哲学に賛同していたわけではないが、実のところ哲学教授としての人気度は依然ヘーゲルのほうが高かった。ショーペンハウアーの講義は常に伽藍としていて、それを横目に見ていたのかもしれない。さてそれとは別にキルケゴールという人物が時を同じくしてヘーゲルを猛批判していた。彼は実存主義の開祖的存在として、まさにその視角からヘーゲル哲学の脆弱さを見抜き、新たな運動を巻き起こした。ショーペンハウアーの方はというとニーチェが彼を師事し、結局は実存主義ムーブメントに合流したが、今になってみると些か運命のようなものを感じる。閑散とした講義に潰えてしまうかもしれなかった彼の哲学生命はなおも生きているではないか。実際のところ彼の哲学が当時はアマチュアに好まれていたのを鑑みれば、議論できる環境を崇高な知性に差し出したのではなく、多様性ある知性にテーブルを開け放したと言える。いずれにせよ当時の共通見解として誰が哲学するのかという問題が主要な関心事になりえたのは、世相等の外部影響も非常によく受けるだろうが、一説として哲学が哲学それ自体と哲学史学に派生したために今までの哲学的議論が相対化される視野が生まれたということである。実際にニーチェは文献学者であったし、その後現れる哲学者も考古学的方法を一定用いている。(一例にハイデガー、アーレント、フーコー) つまり哲学と哲学史学の派生が与えてきたものというのは、哲学者の言葉が信用に足るかという視線である。それは哲学者の恣意的な言明、あるいはドグマを解消することによって、このことが非常に重要なのだが、われわれは他人の意見をその人の主観的な意見だと思い込んで都合の良いようにそれらを否定するが、むしろ養われるべきはそのような独善的判断こそ主観的なものの典型だと理解することであって、独我論を解消させる働きのうちには、みずからもまたいかなる権力関係の最中にあるのかということを理解しなければ、このときより強大な権力がより多くの人々を使役させ、そのことからとある発言がなされたとしても、それがいかに客観的な言葉を語っているつもりでいても、主観的な権威的イデオロギーにしかならない。それはたとえ権力に最接近したとしてもその権力関係に留まるという意味で言えば、せいぜい参加者の末端までにしか届かないし、そもそもそれらの言説というのは、謂わば権力における人々を繋いでおく作用が客観性を肩代わりしているのであって、権威の象徴的地点からその関係性を通じて主体の教条を放下しているに過ぎない。畢竟、人が独善的に話すとき他者を全くの他者だと思わなければ、それは他者と話しているのではない、権威に語りかけているのである。コミュニケーションが他者由来でなければ、そこに時間は閉ざされている。ショーペンハウアーの意志の否定にとって(図式的にはカントの物自体の否定が)意味するところは権力礼讃ではなく権力の無効化である。このことから分かるように、権力構造にみずからを置くことはそれらを無効化するよりは遥かに簡単である。というよりもわれわれは少なからず権力関係にはなから体制側の人間として参加しているが、体制側の人間であることに何らの焦燥感も感じなければ、いよいよ権威を笠に着て、それらを身に纏ったみずからの相貌を尊大だと見なしがちである。しかしながらそこに時間自由的の試みはなく、あるいはみずからに因果応報の罪と罰とを受け止めるだけの土壌も育たず、ただそれらを無視することによって問題から目を背け、時間を止めて殻に閉じ籠っているのだとしたら。史学が提供するものとはまさに、人々の営為が時の権力関係の中で如何にして生き残ってきたのか、あるいは一時の栄光に堕してしまうのかということのドラマである。つまりそれは権威が勝利するのではなく、実力が勝利するということを歴史時間が証明してきたということである。たしかに歴史上の時間とは外圧的な力が時間を無理矢理動かしているのだと捉えることもできるが、問題はむしろ歴史を振り返ることのできる知性に投げかけられる。そこでひとつの成果は前後の文脈によって精査されるわけだが、数々のカタルシスを体験することで、歴史時間をひとつの人格として思い、またみずからの半生を持ち合って対話するのである。それだからこそみな自分の仕事が実質的でありたいと思うのである。さてショーペンハウアーの表象にとってその語彙から受けるニュアンスとは、それらの成果がまだ多分に表象的で本質的に成り得ないという感を呈する。だからと言って、彼が意志を肯定するわけではなかったことは重々承知して頂けただろう。この謎の最大のポイントは、彼が表象も意志も蔑ろにしてとどのつまり懐疑的なアンサーを繰り出したということを示さない。精神的な向上心とは権利関係を相殺した地平で自由な議論を行える可能性を示す。そのとき表象に映る景色には未知の権力からの未知の主従関係によって固定化されたものが現れる。ショーペンハウアーにとって否定されるべきはこれら生への盲目的な意志であって、カントのイデアとプラトンのイデアがちょうど二重の相のもとにあるようにわれわれに思えるのは、彼が時間の問題を考え抜いたからであり、最終的な段階に至るまではカントのイデア(物自体)は否定され、カントのイデアを超越して以降にはプラトンのイデアが顕現すると思い至ったからである。このとき実体イデアとは習得されたものであり、物自体とのラグタイムには学習者の苦悩が生じるのである。つまるところこれは知行合一の精神である。さらに発展させて、われわれは生きることも死ぬことも限りなく公正に評価できるとき、どちらを選ぶのかという問題でもある。それというのは公正な評価ができる知性を習得する必要性に駆られて、精神的な向上を目指すのである。ふつう生命一般にとって死は経験的なものではなく、それも死ぬときには摂理によって殺されるのである。さて低位の精神においてはある出来事が生死以外に無いのだとすれば時の流れもそのようだろう。精神が昂まり自ずと引き受けるべき罪と罰が表れ出るならば、またはより高位の精神が輪廻転生の星霜を確信し、道徳がみずからにより死を手繰るとすればあるいは経験的かもしれない。だからこれらの学習における時間とは有口無行な者に留まるかぎり絶対に進まないし、みずからに塞ぎ込んでしまえばなおのこと前進できないのである。このことを対人関係に置き換えれば、数多の理不尽な顔貌がみずからよりも存在する事実である。たとえば愚痴をこぼす者が実はその者にとって脅威に感じる相手を巧みに滅ぼそうと試みていることや、精神科医がぎこちない表情とあけすけな言葉を患者に投げかけて、さも症状は改善しているという風と言いたげなこと、あるいは精神病が抽象的であるということも、まことしやかにそう思える。しかしながらこれだけの戦線にわれわれは居ながらも、こうした攻撃をいなし、場合によるとゆくゆくは恋愛や友愛、家族愛というものを見事に築き上げて行かねばならない。それはいとも遥かに思える。而してこの遥かな時に身悶え、この戦場を走り抜けることこその人生なのだ。ドイツの詩人ゲーテの一説に「涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の本当の味はわからない。」というのがあるが、(もしかすると原文と正しくないが)これらの意図に通づるようにわれわれには思われる。畢竟、その真相とは、およそ道徳も正義も忘れる勿れ、これに尽きると思われる。
イデア論の可能性
具体例1において提示されたのは、アニメーションの応用についてである。アニメーションについては先に触れたが、ふつう因果関係とは原因結果の順序であるものをここでは結果原因を許している。われわれのテーゼにおいては待ち受ける結果によって原因をクリエイトする可能性や予感的な振舞いを原因の時点でされていることについて、アニメーションは基本的には過去から未来への方向でしか決定されないものという狭窄した観念を振るい落とし、むしろ現在の如何の状況から過去を決定し、あるいは現在をも未来から決定されたもののひとつと感ずることによっては、人間が意識に与えた論理性よりも根源的なものであると見なせる。つまりわれわれは静止イメージの連続体を映像として認識し、この秒と秒の間さえも結合する働きのために時間という装置を必要とするが、それはたしかに運命力と言ってよいのだが、青春の時間ではない。青春の時間とはロマンスの成果を引き出せなかったとき破滅に向かうようなものではなく、憂いの時間である。たとえば映画の中では悲劇的な死が訪れる。主人公はそのようにならなければ、収拾がつかないという風で進行していくが、鑑賞者にとってそうした作品を見るということは、なにもみずからもまた死の場面に突入しなければならないというものではない。鑑賞者はせいぜい人生の彩りとして参照するに過ぎない。どのように参照するかと言えば、映画は都合によって映写機が写せるフィルムの枚数に限りがあるから、つとに人間の認識においてもそれは同様だが、場面が忙しく移動するときには空白を補わなければならない。この都合に漏れた描写はスピンオフ的な要素として、公式やあるいは二次創作に引き継がれるという話は後段に残しておくとしても、われわれとしては空白の次元において身を置く行為は、運命力を用いなければ、非常にフラジャイルなものであると思う。というのは運命力を持ち寄って鑑賞すればそれは単に英雄的な足りなさを自覚するに留まるが、淡い感情は次のフィルムに移ってしまったときには消滅してしまう。何かしらの予感も何かを思った瞬間には映写機の徒然になる。自己喪失において失われているものとは別方向へ行った自分との別離によってその記憶から何かが失われることである。
稲垣足穂の『一千一秒物語』においてしばし散見されるのは、都会的な夜景にお月様や流星だが、時としてそのどれもが輪郭を淡くし、もしも感覚的な表現を許して貰えるとすれば、ちょうどフィルムが重なりあって写され、その為に輪郭は予備動作の輪郭も相まることとなる。さらに流星がさもふつうの人間のように振舞うのもわれわれが夜空をよく眺めるとき、その時分にただ星々にのみ関心を抱いていたならば、フィルムに表れる流星の姿はフィルムに表れる人間の姿と同じくらいの大きさになる。それらもまた幾らか重ね合わせた末に擬人的だと思えてくるのだ。たとえば『竹取物語』においても平安時代の夜は暗く、また月を眺めるということが自然な営みであったからこそ一見して奇妙な御伽噺と思えるこれらの物語は普遍的なのではないか。足穂氏のエレガントさとは、ついにはアニメーションに浸透してしまって、コマ送りの間隙地帯に存在することでより多くの予備動作を一身に引き受けて、スローモーションの美学となり、それはちょうど流星やお月様といった遠い存在に対する淡い感情と、自分を遅ればせていく気持ちがやがては失っていく己を引き留めるだろう可能性に奇しくも合致する、謂わば奇蹟である。さてわれわれはひとつの結論に達した。時間と空間によって今日日可能なこととは、空間は距離の問題として時間はその距離を手繰るものとして、それは短期的な目標に対してはそれ相応の対処(科学的態度)をされるということであったし、長期においては人文学も一定参与されたい。というのも閉鎖環境における実験データの数々は、これは比喩でも何でもなく微妙な誤差によって大いに結果を変えてしまうことが常だからである。(空気抵抗、摩擦、諸々) 現代において統計的手法が採られてきたのは納得だが、それでも何%の確率で成功するという文句では足りないようにも思う。われわれは成功しなかったときほど文系的な語りをされるべきだと思うし、当然成功のスピーチも様々に用意されるのが良いと思う。それは再三だが、自己によるパラレルワールドがヒュイと首を振った界にはじっとしていた自分と決別して、ふつうその片っぽの人生を歩むからである。さてパラレルワールドなどと言うと量子力学あたりが絡んできて、門外漢にはすでにお手上げの領域である。そもそも最新物理学のカタログじみて来る前にとっとと切り上げたほうが良いのだろうが、とは言っても、半可通はカラビ・ヤウ多様体とかワームホールとかが大好物なものである。
近日中に執筆予定