文体論 造形思考 ① (概説、反復、反対)
<はじめに>
兼ねてから、文学における表現の理論を確立してみたいという一心であったが、同じくして、文章というものに決定的な意味を持たせるということの危うさとの間で、私は非常に悶々としていた。というのも、こうやって物を書いてみれば、私はあくまで物を書いているのであって、心なるものを書いているのではないという気がして堪らなかった。元々、表現に際しては、ただ一枚の紙の上で、事物が兎に角、静止していて、私はと云えば今も常に外の影響に曝されているというのに、それはしっかりと座しているような気さえする。たといそれが、表音するということであっても、同じことである。ソクラテスは、文というのを否定したかもしれないが、意味からは逃れられなかったのではないか。ついに私は、「あれでもないこれでもない」と云って、常に動くことを止められない。凝っとしていられなくなった。そんな私からすれば、デカダンスの雰囲気は非常に分かる。何か突破していきたい気持ちは絶えずするのに、芸術というものが、一向に進んで行かない。残された倦怠感と共に、我が身を添い遂げるのは結構なことだが、動くことのために死んでいくのは、これもまた結構なことではないか。こういう滑稽話に身を置かないためにも、多少の恥を忍んで、人と違うことをしてみようと思ったのが、顛末の運びである。
そもそも、近代人の発想からすれば、自意識なるものに、調和を与えるか、喪失を与えるかの択しか残されていないような気もする。殊、調和だと云ったって、どうやってするのだ?ドストエフスキーやトルストイがしたように、人は皆、長短あるように、善と悪とが存在する、だから、あの人はいけない事をしたけれども、翻って慮れば、やむを得ない事情と、彼の持つ善性とが発見できるのだと自身に云い聞かせるのか?自己喪失はどうだろうか?私は、今も誰かの会話の節々にただ相槌を打って、流れに棹をささないように、まるで、人に人だと思われないように生きていくことが素晴らしいものだと思えば良いか。近代人にとって、自意識と神との問題は必然的であるように思われる。というのも神の不在によって、エゴが発端するのであって、神の存在によってはエゴは成熟し得ないからである。同様に現在、失われゆくエゴ、必ずしもそうだと言い切るのは、少し恐いが、そのエゴが縮退していく過程に、人々の神への意識が、浮かび上がってくる。何もこれは、キリスト圏だけの問題ではなく、近代人の問題である。当然、いま日本で暮らしているキリスト者ではない者についても当て嵌まることなのだ。誤った文法で云えば、エゴを喪失するたびに、エゴが増大していく。つまり風景や内面というものが、如何に内側に向いた時に、外の世界を見做すのか。こういう事態は、孤児の問題と似ている。特に死別したみなしごの例である。今まで見えていた世界は、母子共に見ていた。それは母親の視点と子供の視点とが相互に補完されて、優しく包まれていて、危ない時には手を引いて「こっちだ」と云ってくれた。
雛鳥は、親の捕まえてきた餌を食い、そろそろ太ってきた。もういい加減、お前は独りで生きねばならぬという感じがしてくると親鳥は、雛を巣から弾き落とした。その時に見る景色というのは、空虚に有り余る景色だという感じがした。だから雛は巣に戻りたがった。だけども戻れなかった。やがてその虚ろなところに内面が入り込んでくる。こうすれば、獲物を逃さず、食糧にありつけ、このようにすれば、天敵から身を隠して、一時をやり過ごしていけるのかを知ることになった。
今日、雛鳥だったり、みなしごは身の回りに溢れている。精神的に溢れている。人間はそこまで莫迦ではないから、目の前の奴を見て、あいつは子供のように莫迦だと思えてくる。同じく、自身の境遇を重ねて、無闇に同情したりもする。よくよく考えれば、自分が一番、莫迦者だという気がしてきて、嫌になってくる。だから他人は傷つけたくないし、自分は傷つきたくないと願っている。愛憎という関係が、人間の中で取り沙汰されるとき、必ずそれは何かしらの転倒した位置関係がある。殊更、恋愛的なものが、面白いと感じてしまうのは、ぽっかりと空いた穴に入ってくるのが、雛鳥にとっての親鳥でもなければ、人間にとっての神でもなければ、内面に入り込んでくるのが自分の景色、パノラマに新たに創設される、極々技術的なトリビアなのだからであって、その思いがけない感じに感動する。そのパノラマに相応しい景色を単に愛と云い、その逆に憎しみを覚えるのである。そう云った位置における感覚、幼少から経験してきたもの、生まれ持って携えてきたもの、これらの総合的なものを、身体的だと云うのであって、これは位置関係におけるデザインの美しさである。然も愛情と憎悪とが今になって相対的になったのではなく、人間の方が相対的になったために、相対的に、愛憎が人それぞれだと認識されるようになってきた。この限りでは、愛憎も善悪も絶対的な距離関係があったとしても、それを隔たる幾つもの無限の障害を超えもしないで、ただ単純に後ろに振り返って一方は、もう一方はということに成りがちである。そういった感情の揺れ動きに疲弊してくると、やがてドラマティックなものから遠のき、自己の位置関係を把握する事を止めてしまって、さも私は恋愛などには興味はないといった態度をいつしか執るようになる。しかし忘れてはならないのが、これはあくまでそういうポーズを執っているだけのことであって、やがて、それにも飽き出して、恋愛し出したりもする。
何かしら物語を書くとき、視点はかなり重要になってくる。一人称単数で行くのか、三人称客観で行くのかでは、だいぶ事情が違う。それは図式的にいま上で述べたことを参照にして貰ったらいいし、身体性の次元でより濃密にすれば、民族性や共同体の意識が俎上に上げられる。反対に、身体性を抑えれば、相対的に観念的になるのだから、西洋の詩のように普遍性に訴求するもの、小説で言えば、カフカのような文体になることは想像に易い。視点の話より身体性の話をまず補足したいのだが、身体性には、あらゆる二項対立を、それは生と死であったり、聖と俗、寒暖というような自分の肌に感じる直接的なものまで含めて、様々なものを両極化して思考する機構を持っていると思って貰って構わない。大事なのは、その並列されたパラメータが、どういう位置関係にあるか、もしくはパラメータがリンクして連動されているかどうか。寒暖差を例にとる。冬でも日中なら暑い時がある。
道ゆく人はコートを折り、手に提げている。では自分もと云って、一枚脱いだ。丁度少し暑いと思っていたから助かったなどと内心思った。しかしあの小柄な女性は、見るからに厚着していて暑くはないのかと思った。
この例では、寒暖というパラメータに連係して服を脱ぐか脱がないかというパラメータに動きがある。勘違いしてはならないのは、人によって寒いと感じる閾値が違うのだからなどと単純に決めつけないことである。もし周りにいる人が外套を脱いでいなければ、周囲の視線にあっては、少し脱ぐのを躊躇ってしまうかもしれないし、そのことを恥ずかしいか恥ずかしくないかに連動させるか否かは、問題としてあるし、恥ずかしいけど脱ぐというのは実際にあり得ることである。実際にはもっと複雑な問題でもある。実は、こういった身体性の問題は、視点の問題と連結することがある。究極的には物語というのは、作者の一人称視点だと云えば、確かにこれは身も蓋もない話になってしまうが、事実、これまで出版された物語の形式として、一人称を執るのか、三人称を執るのかは、比較できるし、個人のモードとして、どちらに向かうのかというのは、関心がある。
このことについて、詳らかに説明するつもりはないが、というのも、このことを図式的に表そうとすると、変数が多く成り過ぎて、処理できないからである。先ほども云った通り、パラメータは、挙げようとすれば切りがないし、連携するか否かという事情も加わってくるのだとしたら、科学的な理論としては網羅することができない。先に、「理論を確立したい」などと云って、さも理論があるような口振りをしたことや、視点の話の際に「上で述べたことを参照して貰ったらいい」と云ってしまったことについては、これは詭弁であったかもしれない。誠実な読者を失いたくはないから、この場で謝っておく。論理が詭弁になる場合とは、筋が通っていないことが自分の周りに知られてしまった時のことを指す。これから私がしたい話は、如何様にも筋道が立っていない可能性がある。だけれども、一疋の男が話をするのには充分、面白いテーマだからやってみようと思う。
<造形的な思考を用いての文体の考察>
思えば、造形、ものの形というのは、案外思考に影響を与えはしないか。我々の思考の起こるところは、どうしても造形の美しさが先行する。彼ものは、一体何様にして、私の興味を惹き、なぜそれを知りたいと願ってしまうのかと云われれば、それの方が、私には分からぬ。内容というものが、すでに分かってしまったことを指すのならば、造形にはまだ分り得ないところがある。この限りで、私は思想が崇高であるとは、絶対云わない。人が人を通じて思想を獲得した時、獲得しているものは、もはや思想ではなく、むしろ心の領分に近いところが反応している気さえする。しかしこうも云える。我々は眺めるのではなくって、見ることによって、ものの機微を捉える。眺められたものに贈られるものは無い。感想はない。せいぜい山と山の間に落ちる夕日を見て、美しいと溢すくらいだ。ただ、見られたものには内容が与えられる。
夕日が山の浪打ち際を濃く照らして、漾漾としていた。さっきまで真ん丸として浮かんでいたのに比べては、へこたれている。それはへこたれてはいるが、明るかった。私は悲しかった。
内容は、それまで捉えきれなかった感情を絡めて、引き寄せる。引き寄せたものを決して離しはしないで、自らの中に置いておく。すると今になっても彼時のことを逡巡しては、姿形を描いている。この限りでは思想は偉いものだと思えてくる。人間の言葉が成熟してくれば、自然と内容は揃ってくるだろう。ただ大事なのは、参差錯落としたものを均してくのではなくって、ものの本来の姿に立ち返っては悩み、言葉の足りなさの前で、造形に当てがってはこれは違い、当てがってはこれは違い、とやっては、それで関係が深まっていく。それで跡地が生じる。その跡の出来方や、痕跡があることに、えも言われぬ感じを受ける。つまりこの尊さが記憶なのだと思う。亦、それまで忘れられていた小さな記憶は、或時、途端に思い出されてきて、その新雪を踏み分ける感じと、未だ幼かった頃の遥かな感じとが、一挙にしてきて、記憶の瀬に可愛いらしい感じをして登り上がってくる。やがて落ち着いた頃には、淵の方へと沈んでいって可哀想にしている。
私らは物自体によっては生きていない。記憶の方がものの方へと接近する時、意味内容は次第に削ぎ落とされていく。そういう解体されていく感じというのは、言葉の窮屈な感じから、つまり意味が与える場が狭まっていくばかりに、ものの驚異な感じが、果てしない感じがありありとする様になる。反対に記憶がものから遠ざかっていくと、彼ものは、ああいう風であったから、そうに違いないという確信を持って物事を捉えるようになる。造形は、各人の美意識に沿って歪曲されていく。過去の私は今の私のものであって、それが過去の私のものになることもなければ、今が過去になることもないような感じがしてくる。というのも過去の私が今の私を作っているのだから、前提にそぐわない内容になる方が可笑しいという因果関係の強固さのために、本統はそうであった姿形を忘れてしまって、当時如何に自分が悩み苦しんだか、周りの風景がどんなであったかも全て捨象してしまって、現在の出来事の喜びや悲しみと、あの頃の喜び悲しみとが、まるで釣り合わず、あの頃の私というものを否定すらしたくなる気持ちがするようになる。当然、人間の働きとして、自分を否定して強くなる機構はある。だが、弱いままでも肯定し続けなければならないような存在もあるのでは無いかと、最近は思えてきて堪らない。実際、世の人は、どちらに傾き過ぎることもなければ、良い塩梅をして暮らしているだろう?
時折、煙草を吹かしていると、濃ゆい煙が身に近い所で燻ったままでいることがあって、不思議だなと思う。煙は陽に当てられて、色んな反射を見せてもくもくと風に消えていく。また私は唇に煙草を咥えると、それが側から見て、乳呑み児のように見えているのでは無いかと少し恥ずかしくなった。今もこうして呑んでみると、入っていく煙と出ていく煙とがあった。
云ってみれば、私は赤ちゃんなんかでは無い。ミルクなど要らぬ。ミルクなどは要らないが、煙草は欲しい。酒だって呑んだら駄目な人間だという感じがして来るのに、止まない。いま私からそういうのを取り上げれば、嬰児なりの脆さの精神性に傷が付くし、やっとこさ秀でている好奇心も、生物としての必死な感じも本統に全て取り払われてしまう気がする。
言葉は否定されなければ起こり得ない。何も無いような場所で言葉を紡ぐというのは本統に難しい。ただ軒並み並んだ街灯の電気が切れかかっているだけでも、私は、あの電灯はパチパチしていて、もうすぐ消えてしまいそうだとういことを云えてしまえるのにと、今日は思っている。私の興味関心は点滅を繰り返す五月蝿い光と、夏ならば蛾や黄金虫の類に向くだろうし、冬ならば、冷気の感じと、薄い雲のそれから覗くお月様をきっと見つけ出せるだろうにと思うのである。春夏秋冬の巡っていくのが、殊更に日本人に無常なるものを発見させたのは、それが春一色や夏一色の安定した気候のもとにあるからではなく、その四季の巡り合わせが、幾度もこの土地にその豊饒な感じを与えたからであって、その一年の動物の生死、昆虫の生死、植物の生死が、一年、また一年と過ぎ去っていくと、我々も一年、また一年と云って、この移り変わりを共に感じて、決して退屈することなどはなく、また来年と云って、次の季節を楽しみにする精神性を育んできたからではないか。諸行無常を体感し、言葉を編み出したのは、いずれも死んでいったものと生まれてきたものである。
道を行けば、私は一疋のザリガニと出会したことがある。そいつは川の瀬から結構な坂道を掻き分けて、地上に出てきたらしい。丁度出てきたところに私は出会した。彼の足取りは非常に遅く。如何にもノソノソという感じで歩いていたから、気になった。それからも暫く、ノソノソと云って、別に不断の感じで、私を通り過ぎていった。
例えば、この忍耐力にも近い、同語反復や意味の繰り返しに対する微妙さは、不断大して気にならないが、云われてみれば、構造にしては、単調であるかのように思われてくる。知らず知らずのうちに、一言で済むことを延長したような言い回しをしているのに気が付く。そこで私は擬態語や擬声語を用いずに話すように注力しようと思ってやってみたことがあったが、駄目だった。私はもうザリガニに出会えなくなる様な気がして、すぐ辞めた。思えば、オノマトペというのは、偉く縹渺とした雰囲気の中で、その際に、凪に水滴が一滴落ちるが如くして発話されるようなものの言葉だという感じがした。同じ言葉を何度も用いると、繰り返された言葉同士の連関が重要な気がしてくる。「ノソノソ」と云ったら、「ノソ」と云って、右足を出し、次に「ノソ」と云うと、左足を出して、亦、その過程が、恐る恐るという感じがしてきたり、そのぎこちなさがヨチヨチ歩いている感じにも捉えられなくない。草叢を掻き分けてきたというのであれば、ザリガニの軀が雑草や岩に当たっているような如何にも必死で動いている感じというのが伝わってくる。例えば、「ザリガニは必死になって登ってきた。」と云うこともできるが、ザリガニの可愛らしい感じが、半減しているような印象さえ受ける。しかしもしも「私はザリガニに出会えて嬉しかった。如何にも嬉しかった。」と私が云ったとしたならば、私のザリガニへの愛情は十二分に伝わるだろう。
反復表現というものは、論理学におけるトートロジーを、テクストに用いる際に、近代の発達した自我にとって当たり前の筈だった因果関係が破壊されるかもしれないという意識を生み出させるものとしては有用であり、幼稚で、取るに足らない言明を、コンテクストとして、挿入することで、前後の文章関係からは到底乖離しているような現実感、それは殊に、幼少の記憶であったり、純粋に物質的な次元へのジャンプを期待できるものである。
古いぼろいアパートではあるが、庭には、幾つかの種類の花があって、形の違う葉っぱがある。具体的に何の植物のものかは分からないが、虞美人草だけは分かる。虞美人草はすらっとしていて美しい。その美しいのは、花瓣もそうであって、凛としているのに相応しく、開き切らないで、素朴な感じが良い。その正しく伸びているのが、大地と大空を統べている。
その花の近くに行って、しゃがんで見てやると、根は堅く地面に這って、まるでここからは動かないというつもりであるかのように見えるのに、茎から嬲って見てみると顰めつらしい花瓣の朱色に咲きたるが、その青らしい健康な軀はまさに倹約の為に成っているのだと気づいた。雌蕊は日を一途に追いかけて、私に大空を見るよう訊して、「あれが青い空であって、あれが黄金の太陽よ」ということを分からせてくれた。この不摂生な人間と、虞美人草とでは、道徳と、生活とに開き過ぎていて、まるで私は、対照の存在と見るようになった。この対照な関係に、私と花との空間が全てであるような気がしてきた。
ダイナミックな印象を与える反対語は、対になるものを合わせて、完全だという気がしてくる。それは「赤、緑」「青、黄」という補色関係でもあるし、天地開闢の限りである。存在一般に対して、上下左右如何なる方角に対しても、存在を認め、その裡に暮らすものについては身の覚えのあるような普遍的な真理を生む。反復表現が渺とした小宇宙の中であるのだとすれば、翻って、森羅万象の限界だという感じがしてくる。
しかし、世界という表現を使う難しさはある。実際に世界の全てを見てきた訳では無く、部屋にいることの多い私には滅多に使いこなせるものではない。文脈の流れによっては、独りよがりな風に聞こえたり、それを敢えて使うことなら多々あるが、時として、大袈裟にレトリックを使いすぎると、人の信頼を失うことは、人生訓として覚えた。まるで交通事故にでもあったかのようにして覚えた。それからは、車をよく見て歩くようになった。それを知れたのは不幸中の幸いであった。
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