『三たびの海峡(帚木蓬生/新潮社)』、読了。
作者が、「日本人として、書いておくべき義務がある」と言い、
『本の雑誌』誌上では、後の馳星周こと、板東齢人が、「すべての日本人に、この小説を読んでもらいたい」と言い切った、一冊。
(※故三國連太郎主演で、実写映画化も、なされました)
かつて、日本に強制連行された、朝鮮人男性、河時根(ハーシグン)
今や企業の会長を務める彼は、四十数年ぶりの渡航を決意する。人生最後の仕事を為すべき時が来たのでした。
先に、小説としての欠点:
上記に記した、板東や、アマゾンの書評でも指摘されている通り、
手紙で始まり、手紙で終わるこの物語は、一番盛り上がるべき場面を、書簡体で説明してしまう、という欠点を持っていますした。
主人公の一人称で、戦中と現在とを、同時に語りながら、
なお、読者に混同させず、読者を混乱させずに、両時代共に描き切っている本編があるだけに、この冒頭と結末の、あまりにも”装置”としてしか機能していない部分は、やはり、大きな欠点であったと、そう言えるでしょう。
あえて、日本人の行動を擁護してみる:
客観的には、強制収容&強制労働以外の何ものでもないのですが、
こじつけて弁護してみると、これが、結構、都合の良い証拠になりそうなのでした。
・所有地を申告して、山林税を納める法律が交付’(ママ)される
このことによって河の一家は、それまで自由に行えた、小枝集め、ドングリ拾いなどを行えなくなるばかりか、書類申請をしなかったと、国(※日本)に山々を没収され、日本人地主に安く払い下げられてしまうのですが、
これも、「日本人も、同じ法規の規制を受けていた」、という言い訳ができるのでした。
実際には、日本文で複雑な申告書類を作らなければならないので、それまで朝鮮語しか(※漢字とハングル)学んで来なかった者たちには、不可能であることを知りながら行っていたので、差別行為だったのですが。
・鉱山での、労働争議
河たちは、落盤や漏水で死亡者も出る、それでなくても、高温の危険な作業に耐えかねて、ストライキを行います。
しかし、これもまた、「労働運動を取り締まられていた日本人労働者と違って、交渉まで受け付けてもらえた上に、同意事項を書類に証拠として残しておいてくれた。朝鮮人たちは、同意した内容と違うと言っていたが、実際は、書類の通りだった」という反論が出来てしまうのでした。
河たちが、やっとのことで同意して貰えたことで安心してしまい、”日本語だけで”同意書が作られ、定めた約束も、次々と破られていった、というのが実態だったのですが。
日本人”だけ”、ではない:
差別は、当然、全ての人間が行うことですので、河は、妻として迎えた、日本人の千鶴を、戦後、連れ帰った故郷において、朝鮮人たちによる差別で、別れ日本へ帰してしまうことになります。
河が送金していた金を横領していた義兄や、同じ朝鮮人たちを虐待しておきながら、戦後はさっさと日本人に帰化し、市長の下で登り詰めて行った者といい、”卑怯で、穢い生き方を恥じない者たちが、生き延びる”様子は、日韓、日朝、北朝鮮までも含めて、残酷なまでに、平等に、描かれていました。
(※善良な人々、親切にしてくれた人々が、戦後まで生き残れないことは、冒頭からその旨、記されていました)
また、知識階級である、両班の出身者が、
「◯◯すれば良かっただろうに」と、机上の空論で、
河たちの境遇を評する場面も、ありました。
朝鮮は、中国と並び、世界でただ二つ、科挙を取り入れた、
文治主義(ということは、学歴差別もある)国であることが、
よくわかる描写でした。
(※この↑部分、2024/6/25、追記)
その他:
坂東も、”特定の誰かを責めるための文章ではない”旨を評価していますが、たとえば、主人公も、善良ではありますが、ポロッと、「”女子供”の仕事」という物言いをしたり、母と共に捨てられた息子も、優しく「恨んではいません」と言いながら、時折、強い感情を垣間見せることがありました。
皆に、平等に、優しい目を向ける、ということは、皆の境遇を無視して同等に扱ったり、それぞれの欠点を無いことにしてしまうこと、では、決してありません。
そして、そのことは、精神科医であり、英語フランス語韓国語に堪能な作者でさえ、その作品に欠点があるならば、それは指摘されるべきだ、という思いを、読者である、俺たちにも、抱かせるのでありました。
おわり。