『家族狩り オリジナル版(天童荒太/新潮社)』、読了。
(※帯、より)
>血の海に沈む家庭 破滅への電話が鳴り響く
声の主は、一か皆殺しを宣言して受話器を置いた・・・・・・。
あまりにも残虐過ぎる連続殺人、ページを捲るごとに満ちていく狂気。
迷える子どもらに救いの日は訪れるのか?
グローバリズムが、反動としての、自国第一主義を流行らせたように、多様性が口に登るようになると、かえって、個々の家庭の”あるべき姿”は、狭く固く絞られてしまう。
世帯が孤立するからではなく、家族がワガママを貫くからではなく、
”世間の目”を気にするからこそ起こった、
これは、そういう連続殺人事件でありました。
(※以下、ネタバレ!)
親が子を、あるいは、子が親を殺す事件が起きた場合、
世間は、”その家庭だけにある、特別な状況”を探すものです。
なぜならば、”うちには、そんな状況は無いから、関係無い”、
と思い込めるから。
しかし、この事件の犯人が受けた仕打ちは、真反対でした。
世間は、むしろ、「自分たちも、いつ、そういう立場になるかもしれない」という思いから、運動する者ばかりであり、
また、彼らには、その様子がはっきりと、善意ではないと、
わかってしまうものだったのです。
そして、”酷い子供に、暴力を振るわれていた、可哀想な夫婦”にされた二人は、殺害した子供を、素晴らしい子だったと、言い張らなくてはならなくなり、それを証明するために、”他の子供を愛せない親を、子供を救うことを名目にして、殺していくことによって、自分たちを苦しめた社会を救う=自分たちは、苦しんでいるのに、その原因すら治療しようとしている”
と、思い込まねばならなくなってしまっていったのでした。
個々の状況は、本当によくあることで、親と違った生き方をしようとして、かえって子供を傷つける、腰かけにやっていた仕事に時間を取られて夢を追う時間を喪う、世間の評価基準を軽蔑しながら、結婚できないままの自分も許せない、他の家庭の歪みを矯正することで生きがいを感じる、警察全体の大きな不正に呆れて、自分の小さな不正を許してしまう・・・・・・。
どれも、本当に、完璧でない人間なら、いつかどこかで落ちる小さな穴で、そして、現代日本どころか、歴史上どの国を見ても、完璧な人間など、いた試しは、ないのでありました。
>「だけど、あんな風に強引に上がり込んで、何の解決になるんです」
>「どうして親が殺した場合だと軽いんですか」
>「おたくの考える通りの反応をしないと、責められるのかな。こっちだって戸惑ってるんだ」
>「子どもも家庭も持ったことのない方に、いったい子どもたちの相談事などが受け付けられるものなんでしょうか」
>「あの子には何かがとり憑いていたんです」
どこかに、”理想の家庭”のようなものが、あると、そう信じてしまうからこそ、それを外れている、現実の自分の家族すら、受け容れられなくなってしまう。
失敗は起こることなのだと、”絶対しない”は、それを破ってしまったとき、”もうどうでもいい”に容易く堕ちてしまうのだから、むしろ、なるべくしないようにしようと、そう心がけるべきだと、そう思えたら、悲劇は起こらなかった。まして、他の家庭に、理想を押し付けたりなどしなかった。
でも、皆、言えないから、求めてしまうからこそ、感情を出せなくなったり、無暗に叫んだり、過食と嘔吐、曖昧な笑みと強烈な憎しみの顔、穏やかで虫も殺せない性格とイヌネコを無意識に嬲り殺すこととの、そんな両極端を、行ったり来たりしてしまうのでした。
世間並の家庭も、真実の愛も、理想の人生も、夢見るものであって、ギャップを恥じたり、まして、他の家庭を責めたりするための道具に使うものでは無いのだと、皆が、そう思える社会になればと、少なくとも、今の俺は、そう願いました。
終わり。