全体をとりもどすための芸術
表現について書きたい。
私が日々携わる芸術の表現について。
あらゆる表現は「生」の表現である。死者ではなく生者が行うのだから望むと望まざるとにかかわらずそれは「生」の表現だ。柔らかなものからイキってすかしているものまで芸術には表現が溢れている。
しかし私は大いに不満だ。なんだよそれと呟くことが年々増えている。多くの表現者はあたかも自分が死なないかのようだ。自らの死について見て見ぬふりを決め込んでいる。しかし死ぬ。あなたも私も。ということを受容することは後ろめたいことでもネガティブなことでもない。それは純粋な事実なのだから。
そんなことを理解したところで嫌な気分になるだけで何にもいいことはない。そう思う人がいるかもしれない。きっとたくさん。
いや待って、聞いてほしい。
あなたは死んだら終わりであり、「死」は「無」であるとイメージしてませんか?本当にそうでしょうか。誰が言い出したのか、そんなこと。あなたはなぜそう思うに至ったのか。
果たして死んだらどうなるのか。簡単です。死者になります。
死者とは何か。あなたより先に死んでいる人たちです。あなたはたくさんの死者を知っている。身内、近所のおじさん・おばさん、読んだことある本の著者、歌手、俳優、テレビタレント・・・etc。
彼らは「無」になったのか。もし「無」になっていたら私たちはもう彼らを捉えることができない。しかし、私たちは死者を思い出し、懐かしむ。その生き方を手本にする。
果たして死者とは何者か?と同時に死者を懐かしみ自分の中に住まわせるこの私たち生者も何者なのか?
死を受容すると、途端にこんな不思議がでーんと現れる。
死を受容することの意味はこの不思議に開かれることだ。
不思議はこれだけではない。考えれば他にも不思議が次から次へと出てくる。時とは、心とは、愛とは・・・etc。ぜひみなさんも考えてみてほしい。
この不思議の全体を仮に「いのち」と呼んでみるなら、私たちの「生」は「いのち」の中に息づいている。芸術の働きとは一面的な「生」の理解によって失われたこの全体としての「いのち」をとりもどすことではないだろうか。
私たちは一面的な「生」へと自らを閉じることによって「病む」のだろう。同様に「死」を封殺することで社会も「病む」。
心身健やかでいるために、不思議に開かれた全体として私は表現し、生きていきたい。そしてそんな作品にたくさん出会いたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?