不登校先生 (68)
鹿児島から帰宅すると、いつもの自分の部屋では、
やはり2時間おきに目が覚めてしまう。
それだけ、鹿児島での自分の心の状態が良好だったのだなと、
改めて実感しながらも、やはり帰郷で心の回復度合いはぐんと上がった。
友と、その家族に、感謝しかない。
そんな感謝の気持ちを、心が生み出せるようになってきたところで、
もう一つ、足を運ぼうかという気持ちになったのは12月の半ばだった。
4月に病んでから毎朝ショートメールをくれた母に、
「無事に生きているよ」と、顔を見せに帰ろう。
思い立ったら、その時に行動。これができる状態になれているのが、
だいぶ回復してきた証のように感じる。そんなわけで、
母と、妹家族のいる戸籍上の実家に、帰省をすることになった。
「お兄ちゃん、帰ってくるなら年末とかにすればいいのに。」
と、妹は言ったが、この2年間、切りがいいときにほど、
身動きが取れない状況に追い込まれている記憶しかないので、
「どのみち、今は時間だけはあるから、皆さんが動かない時期に、動いておこうと思うよ。」
と、中途半端な時期であったけれども、帰省の日取りを伝えた。
帰郷と帰省。自分の中ではその行動の意味合いが、全く違う。
帰郷は前話までで記述した、鹿児島へ帰ることになり、
帰省は、両親の離婚後に本籍が移った大牟田に帰ることを指す。
母の地元ではあるが、大牟田に自分が住んだことは一度もないので、
鹿児島に帰った時のように、なじみの人、なじみの場所はないのだが、
やはり母や妹、妹の夫さん、甥っ子姪っ子に会いに帰ることが目的なので、
妹家族の家に居候している間、家にいるときと同じように、篭っていた。
妹は母と大牟田に移ってきて以降、もう20年以上大牟田住まいなので、
ホームタウンのこの街の、美味しいお蕎麦屋さんに連れて行ってくれた。
妹ゆっくりとランチをする時間、こんな時間も今までなかったなと、
ほっこりと嬉しくなる。
母は、僕の顔を見て、ほっとしたような表情を少しだけ見せたが、
すぐにいつもの元気なはきはきした話しぶりで、
「で、何食べたいの?」
と聞いてくれた。いつも同じレパートリーになってしまうが、
里芋の揚げ出しが食べたいと伝えると、
「ほかには?作るよ。」
とまだまだ作りたそうだったので、
「じゃあ、ばくだんコロッケもたべたいな。」
「わかった、じゃあ材料買ってくる。」
と、段取りをぶつぶつつぶやきながら、買い出しに行き、
リクエストしたメニューを、夜にどっさり作ってくれた。
妹の夫さんも、穏やかに、帰省を喜んでくれて、
本当は三日で戻るつもりだったが、「日曜日に送っていきますよ。」
と、週に一度の休みに車を出して家まで送ってくれた。
家までは、高速道路で2時間ほどかかるのに、ありがたい。
ゆっくりと母や、妹と話した中で、何度も言われたことは、
「やっぱりお兄ちゃんは、根っから子どもに好かれるんだねぇ。」
と言うことだった。
思春期に入った甥っ子も、高学年になっていた姪っ子たちも、
自分は3年前に帰省した時から全く変わらず、
笑顔も話し方も可愛らしかったのだが、
毎日見ている母や、妹から見ると、他の知り合いの大人の人と違って、
甥っ子姪っ子はすごく懐いてくれているらしい。
今年は家族に心配をかけた一年になったが、
そんな風に迎え入れてくれる家族に、しっかりと顔を見せられるまでに
回復してきたことに、改めて、自分自身で心をほっと安心できた。
まだ、眠りの時間は短いものの、眠剤を全く飲まずに、
眠れるようになった12月。少しずつだけど確実に、
心と体を回復する地力は、確実についてきたように感じていた。
↓次話