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「冬の蠅」 梶井基次郎 感想文

二た冬目の長い療養の滞在となり、同じ部屋で繰り返される疲労感と発熱、その逃がれ難い絶望的な日常から、太陽を憎む「私」。

日向を喜ぶ「冬の蝿」と、日影を愛惜する私。太陽を憎むということは、幸福を憎むということなのだ。

昼間は白く粉を吹いたように疲れている朱色の実が、夕方になると鮮やかに冴える。本当の色の濃淡を太陽の光は壊してしまうということは、色を失う日向に感じたことがある。

日の当たった風景には、「感情の弛緩」、「神経の鈍麻」「理性の欺瞞」がある。これらが象徴するのが「幸福」の条件である、とまでいう。
「太陽を憎む男」

憎め、憎めと私は思った。
このあからさまな憎しみの情熱は、「生きんとする意志」の現れではないのかと、絶望の中にも何か強いものを感じてしまい、私に刺さった。
生きたい、生きたい、東京に帰りたい、そんな思いが伝わってくる。

混沌とした絶望の日常から、きっと抜け出したかったのだろう。突然、外の世界に自分の身を遺棄する。
暗闇と寒さの中を彷徨ったことは、「幸福」とは反対の影の世界を昼間のように心地良く感じている「私」が悲しく印象的だった。心は解放されていた。

眠れない時に想像する自殺の手段も、風呂に漬かり沈んで行く自分も、その苦痛を想像で乗り切る彼独特の方法であると、辛いが、少し面白くもあった。

病鬱、当事者でなければわからない苦しみを読み取るが、病んだ人間の体験、経験からしか見えない心象風景があるのだと、またその中には 見事な感性が生まれており、それを表現出来ることは、大変重要なことであり意味のあることであると、この作品から伝わって来た。

病から得るもの、などという言葉は使いたくないが、確実にその苦しみや悲しみが生み出すものがあるということ作品から読み取れる。

そしてそれらが読者を引き込み感動させているのだから、大変な遺産である。

三日を空けた宿には蝿はいなかった。その蝿の死に自分を重ねる。

「私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまうきまぐれな条件があるような気がした」と憂鬱を感じる。

また、陰鬱を加えていく「私」の生活に戻ってしまう、そのラストシーンは、最もこの作家らしいと感じた。

逆境に立っている人に向かい、「私は何もなくて幸せ」と言い放つ人間がいる。
きっとその人は、影の奥行き、くっきりした陰影、吸いつくばかりの朱色の実の美しさはわからないのだろう。

しみじみ良い作品でありました。

            2022.1.14


読書会を終えて解説をいただきました。

蠅は死んでしまえは無に帰するが、「私」は無にはならない。「生きること」を意欲することは否定できるが、「生きんとする意志」を否定することは出来ない。その意志は持続して行く。

「私」は自分が死んでしまえば、それで終わると感じていたが、意志が残り続ける限り、自分の生命を自分でやめることは出来ない。

「ぬくもり」がある以上生きて行かなければならないことを感じ取って、「その新しい空想に自尊心を傷つけられた」というラストになる。

「生からは逃れられない」そして意志がある限り、人間は無にはならない。

という、読書会主宰の方の解釈に、生命さえ自分でやめる事ができないということや認識の外側の世界が永遠に続いているのだという見方があるということを教えていただいた。

病の中で考え続ける作家をつくづく凄いと思った。

全てを理解出来たわけではありませんが、主宰者の方の解釈が作品に深みを与えてくださり、考えが大きく広がって、参加させていただいている喜びを感じます。

読書会の最後に、ヴィクトール•フランクルの言葉をお伝えいただき、心に染み入りました。

そもそも
我々が人生の意味を
問うてはいけません

我々は人生に
問われている立場であり

我々が人生の答えを
出さなければならないのです





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