レプリカの時代にコールドプレイを目撃した(2)
(承前)
4 ブートレグとレプリカの時代
公演日(2日目)に発売された雑誌の最新の邦訳インタビュー(世界ツアーが開始された2022年のもの)で、クリスは意外なことを語っている。
なんと生真面目で正直な方だろう。サブスクどころかネットで無料の音楽を聴くことすらできないひとが、世界中にいる。悲観していても仕方がないし、ひとりひとりが無理をせず今日できることをしていくだけだ。バンドの活動はシンプルで力強い。
新アルバムを締めくくる「コロラチューラ」は演奏されなかった。重厚なオーケストレーションがツアーのコンセプトと離れてしまうからだろうか。プログレ時代のピンク・フロイドをお浚いしたくなるような楽曲だ。従来のディスクレビューではU2やレディオヘッドと比較対照されるのがお決まりのようになっていた印象があるけれど、今日ではさすがにそのような評もみられない。アルバムの冒頭に戻ると、はるか彼方から「Sheep」(1977)の低音がひびいているように聴こえる。
つくる者も、聴く者も、意識していても、していなくても、世界最高峰となったコールドプレイのシグネチャー・サウンドからは逃れられないのか。そんなことを思いつつ仮に簡単なプレイリストをここに組んでみる。
(分類と数字は便宜上のもので、年次は主に収録アルバムのリリース年。ブートレグ・海賊版、レプリカ、盗作といった言葉は作品名として使用されている語彙に基づき、アーティストとその作品を批難するために用いているものではありません)
Ⅰ 2010年代の断層
M1「Paradise」(2011)コールドプレイ
M2「A Sky Full Of Stars」(2014)コールドプレイ
M3「アンビリーバーズ」(2015)米津玄師
M4「Butterfly」(2016)BUMP OF CHIKEN
Ⅱ レプリカの地層 ~表層から深層まで
M5「Talk」(2005)コールドプレイ
M6「us」(2020)milet
M7「ホラ吹き猫野郎」(2014)米津玄師
M8「春ひさぎ」(2020)ヨルシカ
M9「Woman In Love」(1980)バーブラ・ストライサンド
M10「愛の言霊 ~Spiritual Message~」(1996)サザンオールスターズ
M11「不可幸力」(2020)Vaundy
M12「Last Christmas」(1984)ワム!
M13「宮」(2023)Vaundy
M14「Every Breath You Take(邦題:見つめていたい)」(1983)ザ・ポリス
M15「Heroes」(1977)デヴィッド・ボウイ
M16「replica」(2023)Vaundy
Ⅲ 年輪
M17「Heart-Shaped Box」(1993)ニルヴァーナ
M18「Karma Police」(1997)レディオヘッド
M19「Pagan Poetry」(2001)ビョーク
M20「宗教」(2003)椎名林檎
M21,22「宮」と「黒子」(2023)Vaundy
[コメント]
Ⅰは、米津玄師が過去のインタビューでコールドプレイやU2の名を挙げているから、恣意的に並べたのではなく、好きで聴いているときに、ふとサウンドが重なって聞こえた例として掲げた。M2にはアルバム『ゴースト・ストーリーズ』の前後の曲を加え、続けて米津玄師の「海の幽霊」(アニメーション映画『海獣の子供』主題歌)を聴きたくなる(原作もアニメも、主題歌もそれぞれがすばらしい作品だ)。
EDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)の摂取は、コールドプレイにしてもアヴィーチーらの協力を得て、当時は新しい試みだったはず。
М4は米津が最も影響を受けたアーティストとしてしばしば名を挙げているBUMP OF CHIKENの結成20周年8枚目のアルバムから。新しいサウンドの摂取に関しては順序が逆になっているようなのが、興味深い。
Ⅱでは、ある曲のイントロやギターフレーズが、別の歌のメロディーラインとなる。または直接的、間接的に、音のさざ波が伝わっていく。
彗星のように登場したmiletの1曲は、デビュー・アルバムから。英語の発音を意識しつつ日本語の歌詞をうまくメロディーに溶けこませる、ハスキーなボーカルは特筆に値する。インタビュー記事等からもUKロック志向は読み取れ、ここで取り上げるのは見当違いではないと思われる。「Redbone」(2016)チャイルディッシュ・ガンビーノと「It’s a small world」(2019)King Gnuといった楽曲などの関係も気になるがミクスチャー・ロックやクロスオーヴァーを言い出すと際限がなくなるので深入りしない。シティポップについても同様。М9~11は続けて聴くと興味深い。何にせよ口ずさみやすいキャッチーなサビのつく点は、J-POPの魅力だ。
ヨルシカの曲はずばり『盗作』というコンセプト・アルバムの1曲で、音楽を剽窃して生きる主人公という意識的な作法としてつくられている。アルバムに収録されている「レプリカント」は、タイトルから映画『ブレードランナ―』(およびその続編)にインスパイアされていると受け取れるが、内容はSFではない。「僕らみなレプリカだ」「愛も皆レプリカだ」と歌われるとき、夏の匂いのような、表現から零れ落ちるものをとらえたいのに、さらに言葉や歌による表現をかさねてしまう自意識の運動への違和感が重要なのであり、語彙は同じでもVaundyの宇宙へ出ようとする曲「replica」とは似ている訳ではない。
では通底しないのかというと、「音楽」においてはそうでもなく、贋金作りをやめられない「盗作」の主人公は、「嗚呼、まだ足りない。全部足りない。/何一つも満たされない。」と嘆き続けている。これは、「美電球」の歌詞に直結している。
アンサーソングといった考え方もあるかもしれないけれど、創作意識や作法が共鳴する場合の、このスパンの短さ・近さは、少し引っ掛かりはする。近年のK-POPでは特に顕著に聴かれるようだ。むろんVaundyの音感と意識は明晰で、だからこそ90年代80年代さらにそれ以前まで深掘りしてやまないのだろう。「オリジナルはレプリカの来歴から生まれる」という自論に関してVaundyはムジカ誌のインタビューで、アルバムはカメレオンのイメージであると述べた後、次のように続けている。
М12~16では、Vaundyの内的リズムが何で形成されているかを、あるていど可視化できたのではないか。(原曲でもバルトーク・べーラにインスパイアされたという)「見つめていたい」のワンフレーズは、「1リッター分の愛をこめて」にもひびいているようだ。ここまでの楽曲間の関係を、パスティーシュと言っても、錬金術と言っても、呼び方はなんでもよい。心地よいかぎり、そのひびき合いには溝も壁も境もない。
Ⅲは、ほんとうはそれぞれのアルバムごと引用したい楽曲群で、地下茎で複雑に、密接につながっているイメージ。そういう意識で聴けば、なぜこのような曲をリストにしたのかが伝わるかもしれない。М20と21のあいだにも、まだ何曲か入るはず。M17からМ22はもちろんループする。
サブスクがいまほどはやっていない頃、ユーザーの公開プレイリストによく取り上げられていた楽曲のひとつにAimerの「蝶々結び」がある。Aimerはカバー・アルバムで「Viva La Vida」を歌唱し、そのディスコグラフィーではコールドプレイへのリスペクトに満ちたサウンドが複数の楽曲で聴かれる。「蝶々結び」は野田洋次郎の楽曲提供・プロデュースであり、前回のコールドプレイ東京公演のゲスト・アクトこそ、RADWIMPSであった。
数年を遡って、米津玄師のインタビューから引用した。
同じ記事で、音楽とはフォーマットであり、型の中でいかに自由に泳ぐか。自分のやりたい音楽は普遍的なものであり、それは人種や国境をまたいでも通じる普遍性であって、どこかで聞いたような、見たような、という「懐かしさ」と言い換えてもよいと米津は発言している。
記事のタイトルだけを見ると誤読されかねない文言が並ぶ。当時の『ロッキング・オン・ジャパン』誌11月号インタビューでも似た印象の見出しが見られる(「あなたたちからすれば偽物の、がらくたの塊みたいな自分だけれど、これだけ美しいアルバムを作ることができるんだって、いま一度証明したかった」)。長文のインタビュー記事なので真意をつかむためにはぜひ原文を読んでいただければ。
上記引用部分に関するくだりも、もっと意を尽くしたかたちでしっかり述べられている。ヨルシカ(n-buna)とVaundyの言葉も含め、引用しようとした箇所がほぼ重なる評論がwebに出ていたので、孫引き(引用の引用)っぽくなってもややこしいため、元サイトでご覧ください。
当時どういう流れがあったのかは米津のオリジナリティに関する言辞から想像するにとどめ、ここでは細かく振りかえらない。当初「砂漠」というタイトル案もあったアルバムに、「海賊版」をタイトルとして据える案、その批評性、あるいは最新版のVaundyのレプリカ論の肝心なところは、バウムクーヘンのように層を成した音楽は愉しいということだ。
商業的な問題が生じないかぎりにおいて作者は自由に音をひびかせ合い、リスナーはそのひびきあいを愉しめばよいのだ。
現役アーティストの楽曲を、過去の誰かの模造品の寄せ木細工ではなく、まさにそのアーティストの今の表現として聴く。Vaundyは各誌の取材で、映画やゲームの「レプリカ」モチーフやテーマにおそらく敢えて触れていないと思われる。シネフィルと呼ばれる映画マニアでなくとも、映像表現には引用が溢れ、多層的であるのはテレビCMを1本見ても感じ取れる。本稿でもMVはほとんど考察していない。クラシック音楽や絵画史をうやうやしく持ち出さなくてもよいだろう。ジャンルは違えどたとえば文学においては千年以上も繰りかえされてきた。
もちろん、エド・シーランやテイラー・スウィフトが直面した利権がらみによる裁判や再録といった停滞は深刻な問題である。そして、人工知能等への無断の取りこみや無許可の音声合成などに対して、アーティストは肖像権ならぬ音声権の保護に、早急に取り組んでいかねばならないむずかしい時代でもある(たとえば「AISIS」の例。たとえば米映画俳優組合と協定をむすんだ音声技術企業が、レプリカの名を冠していること。実利をめぐる実業の「社会」的課題)。
コールドプレイに戻ると、あるアーティストから、楽曲「Viva La Vida」の主旋律は自分が苦心し真心でつくりあげたものに酷似しているとの(金銭目的ではない)訴えがあったと、過去のニュースにある。バンドは模倣を否定していた。続報を追っていないが今もライブの定番曲で、バンドも観客もみなハッピーなのはライブ評でふれた。
ところで、アルバム『美しき生命』の正式名称は、『Viva La Vida or Death And All His Friends』。そのジャケットと、Dragon Ashの『Viva La Revolution』にはどういう関係があるのだろうか?
5 Vaundy のライブ “replica ZERO”
「スペイス・オディティ」への/からの無音通信
Vaundy one man live Arina tour “replica ZERO” 2023-24
とある会場。あるいは至るところで。
開幕のSEに、扉を閉じる音。カセットよりも大きな、なにかのデッキを閉める音とも聞き得る。
そのライブは、Hey!…の第一声から始まった。
Vaundyの「ZERO」地点。
「ZERO」。本人が各誌インタビューで名を挙げていることもあって、なにかとOasis楽曲との類似が云々されるのを見聞きする新アルバムの、SEに続くオープナーだ。
Vaundyは「ヘルター・スケルター」(ザ・ビートルズ)のごとく音階の滑り台を降下するノイジーなギターに合わせ、ピンスポットライトを浴び花道を歩みつつ歌うのだが、この歌には歌詞がない。英語っぽいフレーズをその都度口ずさむのだと言うが、これが様になっている。ボリューミーなブラウンのヘアーと眼鏡、フード付きトップスとだぶついたボトムスという独自のスタイル。中央ステージで両手をひろげて観客にアピールする堂々たるポップスターぶりと、英語風歌詞のけれん味に、おもわず笑みがこぼれた。
Oasisの来日公演は轟音と一大シンガロングの連続でさほど良い思い出ではない。ここではオアシス感なんて感じず、これは紛れもないVaundy劇場だ。「美電球」の痒いところに手が届くような演奏が続くころには、すっかり引きこまれている。
「恋風邪にのせて」の後は「カーニバル」が会場を赤く染め、クライマックス時の赤と呼応する。
前提として、昨年11月にリリースされた大部のアルバム『Replica』について触れておかねばならない。もうお馴染みのタイアップ、ヒット曲のオンパレードを詰めこんだのが、なぜかDISC2。DISC1には、主に2023年に作成した、自分が奏でたい音楽を追求する意欲作がこれまた目白押しに並んでいる。
セットリストにはDISC1からの楽曲が絶妙に塩梅されていた。
まるで、既知のヒット曲を表拍子(1拍目3拍目にアクセントを置くダウンビート)、意欲作の新作を裏拍子(2拍目4拍目にアクセントを置くバックビート)として配置したように、いわばセトリ全体が裏拍で猛烈なグルーヴ感を出しているのだ。
各楽曲はポップソングらしく短く、決めのジェスチャーと共に小気味よく完結し、次の曲へとつなぐ。スクリーンも映像演出もなく、MCもほぼ煽りのみのスケルトンな舞台で、本編は100分ほどあったはずだが、体感的には1時間弱といったところ。観客は大盛り上がり、光り物が禁止の会場の手拍子は一本調子ではなく、流れに応じて裏拍になるのもさすがだった。
主観的には、ステージのプラン遂行に余念のないVaundyは時に孤独に見えた。
数曲をピックアップすると、中盤にさしかかるところで安楽椅子に沈むようにリラックスした姿勢で歌う、ディスクではデモ録音のようなゆらぎのあった「宮」。そして「黒子」。開幕の「ZERO」とは逆に音階の階段を駆け登るかのような「怪獣の花唄 -replica-」で本編を締めくくったか、と思われたあとに披露されたラストの「replica」。
特にこの3曲をライブで聴けたことは収穫だった。「呼吸のように」のバラードも思いがこもっていたし、「常熱」や「トドメの一撃 feat.Cory Wong」などもいつまでも聴いていられるようなノリの良さだった。レーザーやライトの組み合わせが何度か二重螺旋になったようであるのも、音楽の遺伝子を意識させる趣向であった。
きみっていいにおいがするね。イスカリオテのマリアが言う。
「replica」では特徴的なヘアーとマイクで顔を埋めるようにして、デヴィッド・ボウイの楽曲「Space Oddity」へ、どこかこれまでの熱量を抑えた調子で、呼びかける。
そう言えば、と後日『スペイス・オディティ』のリマスター版ジャケットを探し出したところ、英オリジナル版のボウイの肖像写真で、その髪型が...。ヴァウンディ。
国際宇宙ステーション内で宇宙飛行士が浮遊しつつ同曲を歌っていたのも早や10年以上も前...。
ライブで注目した曲に戻ると、表面的にはワム!の「ラスト・クリスマス」、中間層から深層にはブライアン・イーノとU2の「ウィズ・オア・ウィズアウト・ユー」、ボウイの「ヒーローズ」、ザ・ポリスの「見つめていたい」といった、洋楽を好きで聴いていれば誰でも知っている名曲のエコーが聞き取れる。さらに深い層は、聴き手ひとりひとりが自らのライブラリから引き出せばよいのだろう。
他にも「CHAINSAW BLOOD」のチェンソー的轟音。
「逆光 -replica-」では歌姫ウタの振りつけのレプリカ版腕まわしが見られた。TK from凜として時雨 によるギターフレーズ(Disc1)も、ぶっ飛び具合が桁違い。
「replica」を歌い終える際の肘鉄をくらわすようなポーズで、本人をはじめ4人の強烈サポートバンドメンバーが瞬間的に静止する。
寒色のライトの中にひとり残されるVaundy。
うつむき加減の姿勢のまま、不動。
真空に放り出された状態かと思ったが、電子音のSEに混じり、雷鳴がとどろく。
辺り一面に乱反射するような切れ切れのライティングは、スキャンを意味するか。
会場を巨大な3Dプリンターと化し、bounceする音楽をひとりひとりに植えつけたVaundyは、バンドと自らを、音楽ごと未来へ送り届ける。
動力源となる雷が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』へのオマージュだとすると、未来からきて未来へ還ったことになる。
そして『映画ドラえもん のび太の地球交響楽』の主題歌「タイムパラドックス」がリリースされる。にくいね。
コピー終了。
転送完了。
米津玄師のツアー「空想」もそうであったが、ヒット曲を並べるだけでも十分成立しそうな今をときめくアーティストのライブが、コンセプチュアルな構成であることに瞠目する。
はじまりのディスク
ライブから日を経て。
ファストフード店に寄っても、ニュース番組を見ても、耳がおかしい。
なんでもVaundyに聞こえてくる。ん? コラボやタイアップか...。
さて。数字だけで評価されたものは必ず数字だけで貶められる。そんなモードとは一線を画することをライブで証明したVaundyは、100万枚売れなければ二度とCDは出さない旨の発言をしていた。
海外の大物アーティストが「新作」アルバムの購入価格をリスナー自身に決めさせたり、先行無料配信をした話題が、はるか昔のことに思える。本気でコンパクト・ディスクにはもう意味がないと考えているのであれば、意味を持たせるのはどうだろう。ライブ入場者に、製品版とは違う特典CDを配布するとか。初めて手にしたひとには何かをもたらすはずだ。
話は前後するけれども、ひさびさに心おどらせながらCDを手に取った。
完全生産限定版スペシャルブリスターパックパッケージ。ん?
取リダセネェ。