【ショート・ショート】駅
帰宅ラッシュの中、電車に乗り込んだ。
今日は残業が長引いて、もう夜の九時を過ぎていた。電車は満員だった。幸運にも座席前の吊り革を確保した。
吊り革につかまり一息ついた。目の前の窓に映る自分の顔を見て、ため息をついた。仕事の疲れが顔にでている。いつの間にか28歳になった。当分の間、彼氏もいない。しかし、仕事は順調だ。確かにその点では順調といえる。しかし、この頃、心が落ち着かないことがある。寂しさなのか、疲れなのか、私にはわからないでいた。
窓の外を流れ行く都会の灯を眺めていた私は、ふと窓に映る隣の男性の顔を見た。ドキッとした。その男性は、私が2年前まで付き合っていた孝雄だ。顔も髪型も変わっていない。見たことがあるスーツ、コート、マフラー。間違いない。
私と孝雄は、結婚も意識していた。しかし、孝雄の浮気が原因で別れた。孝雄は、自分勝手で女性にもだらしなかった。私は、孝雄に何度も裏切られた。それでも、孝雄のことを心から嫌いになれなかった。私の本心は、孝雄と別れたくなかった。でも、私は自分を大切にすることを決めた。私の決断は間違ってなかった。
私は、ガラスに映る孝雄を何回も見た。孝雄の視線は下を向いたままだ。孝雄の顔を正面から見てみたい。でも、できない。次第に昔の思い出が蘇り、胸が痛んだ。なぜ、別れたのか。そう自分に問いたい自分に気づく。
孝雄は私に気づいていないようだった。私は、孝雄から声をかけられることを期待していた。未練がましい自分が嫌になる。でも、そんな気持ちを抑えられない。
気がつくと降りる駅に到着していた。私は、降車ドアの方に体を向け、少しずつ歩き出した。帰宅ラッシュのため、降りるのにも時間がかかる。
「あの時はごめん。絵里。俺は・・・」
孝雄の声だ。はっきりと聞こえた。
私は、孝雄の声に振り返ろうとした。しかし、私は、乗客の波に押され、そのまま下車してしまった。私は、流れに逆らってホームで立ち止まった。
乗車客の波が収まり、ドアが閉まり、発車のベルが鳴る。私は、電車の窓越しに孝雄の顔を見た。孝雄も私を見ていた。
「何が『絵里』よ。私は『澪』よ。最低」
(終わり)