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【短編小説】ツツジの咲く頃に

木村健太は、30歳を過ぎた独身男性だ。平凡な日々を送る彼にとって、週末の土曜日は特別な日だった。

いつものように自分のアパートから図書館へ歩いていく。4月も第3週になった。もう、ツツジが咲き始める頃だ。健太は公園を通り抜けながら、ピンク色の花々を眺めていた。健太は、春の陽気を味わうようにゆっくりと歩いていった。

健太は中堅の製造会社で事務職として働き、総務の仕事をこなしている。仕事ぶりは申し分ないが、寡黙な性格のため、会社では友人がいない。

健太は両親を早くに亡くし、学校時代の友人とも疎遠になってしまった。人付き合いは苦手で、自分から積極的に話しかけることはない。
以前、会社の総務課にいた山田美咲という女性だけは話が合い、楽しく会話ができたのだが、彼女は途中で会社を辞めてしまった。美咲との別れは、健太にとって大きな喪失感があった。健太の心に追加されるはずだった新しいページは、消えてしまった。

そんな健太にとって、唯一の楽しみは本を読むことだ。土曜日になると、近くの公営図書館で夕方まで本を読み耽る。時間が経つのも忘れ、ページをめくり続ける。本の中の世界に没頭することで、現実の孤独を紛らわせているのかもしれない。

健太は、今日も図書館で本を探していた。いつもは夏目漱石などの古典文学を好むが、今日は村上春樹の作品を手に取った。現代的な文体と不思議な世界観に引き込まれ、時間を忘れて読み進める。健太は、村上春樹の作品の現実と非現実の境界線が曖昧に移ろいゆくところが気にっている。また、彼の描く「孤独」が、自分の孤独な心情と共鳴するところがあると思っていた。

夕方、健太が本を借りる手続きをしていると、受付の女性スタッフが美咲に似ていることに気づく。髪の毛の色や目元など、確かに美咲を彷彿とさせる。しかし、女性は特に反応を示さなかったため、健太は人違いだと思うことにした。

それでも、健太はその女性のことが気になって仕方ない。美咲との思い出が、鮮明によみがえってくる。

健太は、土曜だけでなく、平日も仕事帰りに図書館に通うようになった。美咲に似た女性と話をしたい、もう一度あの楽しい時間を味わいたいと思う一方で、自分から声をかけることはできない。迷惑をかけたくないという思いが先立ち、ただ遠くから眺めるだけだった。健太は、自分の臆病さを情けなく感じていた。

5月初旬の土曜日。健太は、いつものように図書館から帰ろうとしていた。夕方近くになっていたが、まだ外は明るい。図書館の自動ドアに向かおうとしたちょうどそのとき、健太は、突然その女性スタッフから声をかけられた。

「木村さん、ですよね?」

驚く健太に、女性は微笑みながら続ける。

「私、山田美咲です。以前、同じ会社で働いていましたよね。お久しぶりです」

「山田さん・・・?本当に山田さんなんですね」

「はい。実は、木村さんがいらっしゃると随分前に思っていたんです。ただ、人違いもしれないって思って。でも、どうしても、木村さんに話しかけたかったんです。また、あの頃みたいに本の話がしたくて」

健太は、目の前の光景が信じられないようにしばし立ち尽くしていた。思いがけない再会に、頭の中が真っ白になる。しかし、すぐに喜びが込み上げてくる。胸の奥から、温かいものが溢れ出してくるような感覚だった。

「山田さん、僕もです。山田さんじゃないかなって思ってた。山田さんに話しかけたかった。でも、迷惑かなって...」

「迷惑なわけないじゃないですか。私も木村さんとの会話が楽しみだったんです。私、今日の勤務は終わりなので、一緒に帰っていいですか」

「もちろんです。うれしいです」

二人は久しぶりの再会を喜び合った。

図書館を出ると、ツツジの花が満開になっていた。鮮やかなピンク色が、二人の心を明るく照らしている。春の訪れとともに、健太の心にも希望の光が差し込んでいた。

「よかったら、今度は図書館以外で会いませんか?もっとゆっくり話がしたいです」

美咲の言葉に、健太は勇気を出して頷いた。

「はい、ぜひ。僕も、もっと山田さんと話したいです」

二人は、笑顔で次の約束を交わした。健太の人生に、新しい1ページが加わった。

(終わり)

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