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荒れそうな話

 最近、昔使っていたtwitterのアカウントを発掘した。そのアカウントは小学校や中学校の同級生たちをフォローしていたが、最近悲しい出来事があった。


 そのtwitterのアカウントでタイムラインをしばらく眺めていると、フォローしている旧知の者の一人はどうやらかなり左寄りの思想を持っているらしい、ということがわかった。別に私はそれを悲しいだとか思ったわけではない。私が悲しいと思ったのは、彼が某島国の首相を呼び捨てにして揶揄していたことだ。

 人間は三人いれば派閥ができる、などと言われているくらいなのだから様々な思想があるほうが健全だろうし、彼が政治に関心を持っているということは大変喜ばしいことであるとも思う。だが全く関わったこともない他人、ましてやある程度の役職や実績のある人を呼び捨て(あるいは蔑称)で揶揄などと、それは思想ではなく品性の問題ではないだろうか。

 どんな思想を持っていても、自身と考えが一致しない他人を攻撃したくなるのはよくわかる。特にインターネット上では右側の人も左側の人もかなり苛烈に相手を攻撃するような傾向にあるようにも思う。人間とはそういう生き物だし、ある程度仕方ないところもあるのかもしれないが、彼の揶揄によって私は彼のことがどうにも幼稚に思えてしまったのだ。

 私とて聖人でもなし、他人を攻撃したくなることは頻繁にあるし実際に攻撃してしまったこともある。だが今回の件で私はその自らの過去の行いの愚かさを知ることとなった。攻撃するということは楽なのだ。自らの価値観を相手に投げつけるだけで良い。一方的に投げつけるのだから会話も必要ない。自分が既に持っている価値観を押し付けるのだから熟考する必要もないのだ。だから、私は彼の行いを幼稚で品性に欠けると感じたのだろう。

 幼稚であると認識されてしまえば本人の主張がいくら道理が通っていても歯牙にもかけられまい。そう考えると、品性とはすなわち自らの行動や言葉に付加価値をつけて相手に尊重させるためのものなのだろう。そして、その品性による付加価値というものは私自身が考えているよりも重要で、巨大なものなのだ。

 今回の件以降、私はなるべく他人に尊称や役職名をつけて呼ぶようにしている。他人への攻撃をしないように相手の言葉に利があると考えて熟考するようにもなった。それで私の品性が保証されるのかはわからないが、今回の件を教訓とするならば、品性とは思慮によって保証されるものであるはずだからだ。そして思慮によって品性が保証されるならば、恐らくは品性というものは訓練や教育によって会得可能なはずなのだ。

 私は成人しても、成人と子供の違いがよくわからなかったが、品性による行動や言葉に対する付加価値、というのは成人と子供を区別する重要な要素な気がしている。私自身が大きな子供にならぬよう、私は思慮をやめてはならぬと思うようになった。

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