『戴天』千葉ともこ①
はじめに
翻訳のすきまの時間を縫うようにしながら、読み進めている本がある。
一気に読んでしまえたらどれだけ良いだろう。立ち止まりながら読むこともまた読書の楽しみだと恩師が言っていたけれど、わたしとしてはおもしろい本はひと息に読んでしまいたい。……いや、仕事の引き合いが増えたのはとてもありがたいことなのだけれど。
それはさておき。
読んでいる本というのが『震雷の人』で第27回松本清張賞を受賞された、千葉ともこ先生の『戴天』である。
表紙からして
『震雷の人』を手に取ったときも思ったことなのだが、ずるい。カッコよすぎる。
まず『震雷の人』の表紙がイラストレーターの王浣先生。中国で映画化された夢枕獏先生原作の『陰陽師』、その映画ポスターを担当したのが王先生だ。そして今回『戴天』が「十二国記」シリーズの表紙を担当している漫画家の山田章博先生。中華エンタメ好きでお二人の名前を知らない者はまずいない。千葉先生に対する出版社・文藝春秋の期待が透けてみえるようだ。
あらすじ?
舞台は唐。楊貴妃を寵愛した玄宗皇帝が政治を疎かにし、宮廷で佞臣が暗躍していた時代。都よりはるか西方の、天山山脈を超えた先の戦場に立つのが主人公・崔子龍である。
この物語はあらすじを細かく書かないほうが面白いのだと思う。本を読むときにわたしがよくやるのが、先の展開を推測しながら読み進めていくことだ。作者がしかけた心を揺さぶる罠にひっかからないように、慎重に慎重にページをめくってゆく。そして先の展開が想像通りであれば「ほらみろ〜!」と両手をあげて喜ぶのだけれど(いやな読者である)、この作品にまだ「ほらみろ〜!」は訪れていない。序盤50ページまでで3回ほどいい意味で裏切られている。
におい、鮮やかな対比
五感——『戴天』は特に嗅覚に訴えてくる作品だ。
序章は戦場ではない。崔子龍と、幼馴染・杜夏娘のふれあいが描かれている。静かな雨の降る夏の日、ジャスミンが咲き乱れる庭先に、傘も持たず濡れるままになっている崔子龍が現れる。杜夏娘はすぐさま彼に駆けよった。二人はお互いの頬を手のひらで包み、雨粒をぬぐいあう。
濡れて張りつく髪や肌の質感、雨に打たれたジャスミンのにおい。目の前には確かに文字しかないはずなのに、激しく五感を刺激される。
そして物語は進み、戦場。錆びた鉄のような血のにおいが風に乗って櫓の上にまで届く。崔子龍の属する軍は宦官を長に戴いていており、部隊も宦官まじりの編成だ。兵の中には陽物を失って間もない者も多く、彼らはまだ排尿の調整ができないため、いたるところで小便をする。狭い櫓の中には血と尿のまじった、むわりとべたつく異臭がこもっている。
序章に雨に濡れたジャスミンが香っているからこそ、戦場に漂うこの異臭が際立っているのだ。
この鮮やかな構成を目の当たりにしたとき、思わず顔を覆ってしまった。序章を読んで「なるほど、恋愛ものか〜」とほのぼのしていた自分が恥ずかしくなったのである。
続きは読了後に。
読了後は、おそらくまた興奮冷めやらぬまま筆をとることになるのだろう。
おもしろいのは間違いない。序盤がおもしろい作品というのは最後までおもしろいものだし、今だって気を抜けば寝る間を惜しんで読み進めてしまいそうなほどなのだ。
中華好きの方はぜひお手にとってみてほしい。