長編 Fragmentary Color No.1〜No.2
〈記録用〉
第1章 夕すげの丘
ここはいつも静かだ。
春にきても、夏に来ても、秋にきても、そして冬に来ても。
小高い丘の森の奥にある彼の家は、そこにそっと建てられている。
まわりの自然を邪魔せぬ程度にそこに置いてある、というふうに。
男のひとり暮らしとは思えないほどの、清潔さに保たれた部屋はなにより彼らしい。
厳密に言えばひとり暮しというのは当てはまらないのだけれど。
基本的にはそう言えるから。
彼のたてるローズ・ティは彼のオリジナル・ブレンド。
春咲きのホワイト・ローズを摘んで、夏まで自然の太陽にゆっくりと乾燥させる。それをオレンジ・ペコと混ぜ合わせて作る。
夏限定のローズ・ティ。
口に含むと春の花の香りと夏の太陽の香りが、みごとなハーモニーを作る
「元気だったのか? 」
「・・・」
彼の質問に顔だけで答えるのはいつものことだ。
開け放した窓からの風は、真夏とはいえないくらいに涼やかで。
「ね、彼はお出かけなの? 」
「ずっとお出かけだろうな。」
その一言ですべてがわかる、哀しいくらいにはっきりした事実。
「卒業したんだ・・彼・・」
「朝になれば自然と誰でも目が醒めるものさ。」
「あなたが起こしてあげたの? 朝だよって?」
「彼が目を覚ましそうだったから、熱いミルク・ティを作って運んで行ってやっただけさ。」
「そう・・目覚めはよかった? 彼。」
「ぐっすり眠った後は目覚めもさわやかなものだろ?」
「ぐっすりね・・。」
彼の瞳は深い錆色。どこまでも深い錆色。
森の奥にすむ秘鳥の目のように。
「ね、悲しい? やっぱり。」
「悲しいね。やっぱり。」
そんな嘘つきじゃない彼が、好きだ。
「その悲しみどうするの? どうやって癒すの? この森の自然が癒してくれるの?」
わたしの空になったティー・カップに、二杯目のローズ・ティを注いで、彼は窓の外に視線をずらした。
「自然はそんなにやさしくはない。甘い気持ちでもたれて行くと手ひどく突き離されるもんだよ。人間は自然と共有しているつもりかも知れないが、自然はそう簡単に受け入れてはいない。
人間にとってはこの風も雲も森も鳥も花も、どれも同じ唯のやさしさの風景かも知れないが、彼等にとっては生きる闘いの戦地。
癒してほしいなんて、人間のもつ傲慢さ以外の何ものでもないさ。」
いつになく彼を饒舌にさせているのは何故なのか。その答えを知るのは今日でなくてもよかったのに。
「で。 悲しみはどうしてるの?」
「唯 見つめている。」
「見つめているの? それだけなの。」
「そう。それだけ。ところでお前はどうなの? 森林浴ってわけでもなさそうだしね。」
わたしに向けられた彼の眼差しの穏やかさに、ふと安堵するわたしがいて。
「少しね。女でいることを忘れにきたの。それだけ。」
「そう・・。お前はいろんな女になる女だからね。やさしい女にも、冷たい女にも、悪い女にも。そうやっていつも相手とひと区切りつける。お前らしい決着のつけ方だが。」
そうね。どんな女になるのも少し疲れる。
しっくりなじむ自分色の女なんて、あるのかどうかだって疑わしいものだし。
でも男はいつでもわたしに女を求める。
女のわたしを欲しがる。自分たちが勝手に作り上げた、わたしの 「女」 を見たがる。男だけじゃないかも知れない。
人はいつでも何かで人を区切りたがる。
言葉にしない言葉を、わたしはカップの上でゆらゆらと揺らしている。
女を愛さないあなただから、わたしはこうして 「わたし」 でいられる。
台本のない、セリフのいらない、無言劇の中で柔らかな息ができる。
ひどく静かな午後。 ここはいつでも静かだけれど、今日はそれ以上に静かな午後。
聞こえるのは遠くでかすかに鳴く鳥の声と、木の葉が風にゆれて重なり震える音だけ。
無くした悲しみをじっと見つめている彼と、女でいることを忘れた私と。
そんな二人を冷たく取り囲む素知らぬ顔の森と。そこには、融合も、協調も、同和も、なかったけれど。
その否定も肯定もしない、互いの存在だけを見ている時間が、とてもここちよかった。
「戻るのだろ? 今日中に。丘の日暮れは早い。ゆうすげの咲く道を通って送っていこう。」
少し回り道のなだらかな坂道の両側に、黄金色の小さなラッパのようなゆうすげが群生していた。その上を赤とんぼの群れが、規則正しく旋回をしている。
少し目を細めて遠くを見つめる彼の姿に、人は何を見るだろう。
今、誰かが彼の目の前を過ぎたとしても、彼の姿を目に捉えたとしても、彼の深くて遠い隙道を、見つけられはしない。
彼の胸にひろがる透明なガラスに刻まれた、いくつもの微細な傷になど気づきもしない。
逆光に浮かぶシルエットのように、人は人を見るだけだ。
丘の上から見下ろせば緑の畝を縫うように、町へと向かう電車が、小さく蛇行しながら進んでいる。
ゆうすげの群生する丘は、目を閉じるように日が暮れた。
Red dragonfly
照り返しのきつい小さな駅
出迎えてくれたあなたに
涼やかな笑顔を見た
両の手のひらに盛れるほどの
たくさんの小花が
二人が歩く道筋を縁取る
肩を並べて 唯 歩く
それだけのために ここにきた
音の消えた 真昼の時間は
光の強さが 時報を告げる
夕闇迫る町に トンネルを抜けて
戻る列車が駅につくまで
まだもう少し 歩ける
あなたの傍を
赤とんぼが急旋回した・・・・
第2章 バルコニーから
彼女は長いまっすぐな黒髪を頭の上でくるりと巻いて、大きな髪留めで止めながら振り向いた。
「彼のところへ行ったんだって? 」
髪を上げた彼女の首筋は細くて白くてしなやかだった。
「連絡あったんだね。彼から 」
「昨日ね。あなたにローズ・ティ託けたって。」
顔を上げた彼女の顔に細い笑い皺。
「きれい・・」
「何が?」
「その笑い皺が 」
「妙なところを誉める人ね。喜ぶべきことのなの? それって。」
そう言いながらもちっとも嫌じゃない顔をして、またきれいな笑い皺を見せて彼女は笑った。
「わたし、きれいな笑い皺の出来る人好きだな。ちゃんと大人を生きてるって気がするから。」
バルコニーからの風は少し離れたところから、ぐいっと広がる海の匂いを包んできた。
彼女はわたしに彼からの届け物のローズ・ティに、クラッシュ・アイスを山盛り入れたアイス・ティのグラスを差し出して、わたしの隣のガーデンチェアに並んで座った。
「これを飲むと夏だなあって思うのよ。」
「よく二人で飲んだんだ。」
「そうね。少し前まではね。」
「毎年届けてくれるんだね。 彼。」
「そういうとこ律儀なのよね。 あの人。」
ストローでクラッシュ・アイスをサクサクいわせて、彼女は海を見つめている。
海が好きな彼女と、森に住む彼と。
「サージ・グリーンの愛なんだ。」
「あなたは何でも言葉を色で表現するのね。おかしなひと。」
海はところどころに小さな波羽を浮かべて、それを閉じたり開いたりしていた。
それはゆっくりと呼吸をする彼女の胸のように白い。
「愛・・。めずらしい言葉を使うのね。あなたが。」
そう言った彼女の言葉に、思わず二人して顔を見合わせて笑ってしまった。
まったく、陳腐な言葉。
愛とか恋とか、何故かひらひらのナイロンでできた安物のカーテンみたいで、いつまでたっても好きになれない言葉だ。
でも時には借り物のような言葉が、妙にリアルにこころに響くときもある。
彼女は彼と別れた理由を、かつてわたしにこう言った。
「愛しているけど、愛し合えないから。」 と。
「お互いに愛し合える人がいるときはそれでもうまくやれるわ。でもどちらかがそれを無くしたとき、その時が一番辛いのよ。
その人の代わりにわたしはなれない。
そしてまた彼も、わたしが無くした人の代わりには絶対になれない。
お互いの辛さわかるから。だからお互いによけいにやさしくなる。
満たすことの出来ないやさしさを、与える側も貰う側も辛いもの。
やさしい人の辛い顔は見たくないものよ。 彼もわたしも同じ気持ちだった。」
柔らかに整った彼女の横顔。
切れ長の澄んだ瞳。
薄くて小さな花弁のような唇。
この人が愛せるのは女だけなのだ。
女を愛せない彼と男を愛せない彼女の、不思議だけれどとても普通で健康的で清潔な生活。慈愛に溢れた、けれど多角に重なる綾のような細い関係。そのバランスが崩れたとき、二人の深い悲しみになる。
互いのこころにあいた穴を、うずめてやれないやるせなさが二人を引き離した。
サージ・グリーンの柔らかな絹布のうねりのような、なだらかな別れ。
「彼から 釘をさされたのよ。」
そう言って彼女は ふふっ と 笑う。
「なんて?」
「彼女に手を触れるな、ってね。」
わたしは 思わず声をだして ククッ と笑う。
「彼がわたしに何かを規制することなんて、今まで一度もなかったことよ。 お互いそういうことが一番嫌いだったから。」
「で、なんて答えたの?」
「誰がどう言おうと欲しいものは手に入れるわって。でも強制はしない。
彼女がその気ならそれは彼女の意志でしょ、って言ったの。 でしょ?」
「そう簡単に手には入れられないかもしれないよ」
「今はね・・」
彼女は髪留めをゆっくりはずした。
まっすぐな黒髪は風にはらりと舞って、それから彼女の肩に降り落ちた。
「彼もわたしも片出来な人間なの。不完全なかたまりを持った。 だから愛せるのよ。そしてその存在を互いに認められる。
両出来の人は絶対に認めようとはしないわ。 完全な答えしか見つけようとしないから。
見えないもの、確かでないもの、ぼやけているもの、そういうものはすべて排除するの。彼等にとっては、知識や常識という方程式で解けない不確かな答えはすべて誤答なのよ。
彼はね、あなたを大切にしたいの。
あなたはわたしたちと同じ匂いを持っている。でもあなたはどちらにもなびかない。
向こう側とこっち側、あなたはその真中にいるの。
彼は言ったわ。彼女はどちらの側にも行かせちゃいけない人だって。だから彼女に触れてはいけないんだ・・ってね。」
彼女の瞳も錆色。 深い錆色。 彼と同じ目をしている。
人はどこかに深い穴を持っていて、持ちきれないものを少しづつそこに埋めていく。
掴み損ねたもの、握り締めて潰したもの。
どんなかたちだったのか、原型などとうになくなった何か。
それでも自分にだけは解かる、その「かたちなきもの」をそっと埋めていく。
「このまま」 がいい。
わたしは海を見ながら思う。
森の奥に住む彼の、しみ透るような深い静寂。 海の底にゆっくりと漂う紫紺色のたまゆらのような彼女。
それを唯そばにいて見ているわたし。
「このまま」がいい。
彼とあなたの間のわたしがいい。
バルコニーから見える海に、港を出た船が白い筋を引いて小さくなる。
その傍にあたらしいアクア・ラインが出来た。海沿いの道を走る ゆめかもめ
海の好きな彼女と森に住む彼とそしてわたしと。 それを繋ぐ ゆめかもめ
Sea Line
わたしの住む 近くの街にも 海沿いを走る マリン・ライン が出来たよ
外国船が 遠くをゆき
漣がうろこの銀片のように 無数に散らばった海が見えるよ
昔読んだ 絵本の中の
赤い靴の少女が
わたしの目の前をスキップして
通り過ぎた
なのに なぜか 哀しい眼で
振り向いたのは 何故?
遠くに聞こえる汽笛の音が
出発を告げるから?
今 海沿いの道を
電車がゆっくりとカーブした
その名前は ゆめかもめ・・
ー第3章へー
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