ノックの音が
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ノックの音がした。
ここは、大都市の郊外にある田舎街で、おんぼろアパートの一室に、青年は住んでいた。とんとん、とん、と三回強めに叩かれたノックの音で、青年は目が覚めたのだった。まだ室内は暗い。窓から入ってくるカーテン越しの街灯の光に照らされる枕元の時計を見ると、針は四時を少し回ったところだった。
こんな時間に誰だろう……。誰かのいたずらだろうか。青年は、ねぼけた頭でそんなふうに考えながら、布団の中で伸びをした。六畳と三畳の和室に小さな台所と手洗いがついただけのアパートの、ずいぶんくたびれた入り口の扉のほうを、布団の中からうかがったが、特に人の気配は感じられなかった。
本当にノックの音だったのだろうか。しんと静まり返った夜の街の静寂に包まれていると、さっき確かに聞いたと思ったノックの音が、本当にしたのかどうか、だんだんと曖昧なものに思えていった。
何か別の物音を聞き違えたのかもしれない。それとも、そもそも音などしなかったということだって考えられる。青年は、とてもリアルな夢を見ることがあった。夢の中で自分の部屋で寝ていて、体が浮き上がり始め、なんとか止めようと必死になって、はっと気がつくと目が覚めている。ついこの間も、そんな夢を見たばかりだった。ノックの音と思ったのは、夢の中で聞いた何かの音だったのかもしれない。
そんなことをぼんやり思っていると、扉のほうで、何かが擦れるような音がした。青年は、緊張して体がほてるのを感じた。誰かが、あるいは何かが扉の外にいるのだ。
青年は布団の中で上体を起こし、ほかに何か音が聞こえないかと意識を集中した。呼吸に気をつけ、ゆっくり吸って、ゆっくり吐いて、肩の力を抜くように心がけながら耳を澄ませた。けれど、冷蔵庫のモーターがたまについたり消えたりする音以外は、時折り、遠くの街道を走るトラックの音が響いてくるだけで、入り口の外で何ものかが音を立てることはなかった。
風でも吹いて、何か音がしただけだったのだろうか。いや、それほど風が強いようには思えない。犬か猫でも? それだったらもう少しがさごそと音がしてもよさそうだ。あるいは、まったくの空耳だったのかもしれない。こんな未明の時間に目が覚めて、意識の状態も少し普段とは違うのだろう。過敏な神経がありもしない音を創り出してしまうことなど、よくあることに違いない。
すると今度は、扉の向こうから、短いうめき声のようなものが聞こえた。人だろうか。それともやはり猫? 青年は布団を抜け出すと、ゆっくりと入り口の扉に近づいていった。扉の前に立って、その向こう側をうかがう青年の手は、緊張で汗ばんでいた。酔っぱらいでも倒れているのだろうかと考えたが、何か得体の知れないものが、夜の闇の中に潜んでいるような気がして、青年は声をかけてみることも、扉を開けることもできなかった。
勇気を持って扉を開いてしまえば……。多分そこには何もおかしなものなどないに違いない。空耳か、それとも野良猫か何かの仕業で、とにかく、何も恐がるほどのものなど、ありはしないのだ。
理性の声は、青年にそう自分に説明したが、青年の中で落ち着きを失った小さな獣は、そんな理屈付けを聞く耳など持たなかった。
扉の外は、まだ闇だ。闇の中にはどんな怪物が潜んでいるかわからない。迂闊に開ければ命を落とすぞ。化け物に魂をさらわれて、もうここに戻ってくることはできなくなってしまうぞ。
そんな話は漫画や映画の中だけの話だと、青年は思っていたはずなのに、なぜか今は、扉を開けると、本当にそうした邪悪な力がこのアパートに入り込んできて、取り返しのつかないことが起こってしまう、そんな想像を抑えることができなかった。左の額を汗が一筋流れた。
青年はゆっくりと深い呼吸を繰り返し、肩から両腕にかけての力を抜いた。そして、青年は呪(まじな)いを使うことにした。
ノックの音はしなかった。
そうだ、ノックの音など初めからしなかったのだ。夢の意識と過敏な神経が創り出した、実際にはありもしなかった音の正体など突き止める必要はない。そのことはもう忘れて、布団の中に戻ってもう少しゆっくりしよう。
それが自分の弱さからくる言い訳に過ぎないことに、自分自身、気づいてはいたが、青年はその弱さを許すことにした。今はまだ力が足りないのだ。力が足りないのに無理に恐怖と向き合うことはない。きちんと力を蓄えて、次の機会には化け物の正体を見極めればいいのだ。
青年はそう決め込むと六畳間に戻り、布団にもぐり込んだ。心臓はまだどきどきしていたが、ゆっくりと深呼吸を繰り返す。そうやって、魔物の時間が過ぎ去っていくのをじっくりと待つことにした。もうじきだ。もうじき、東の空が白んで、逢魔が時も終わりを告げるのだ。
[星新一氏の「ノックの音が」を思い出して書きました]
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