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26 北インド、ハリドワル、2021-09-13月曜、朝9時8分

ヒンズー寺の巡礼宿に滞在している。部屋から一歩扉の外に出ると、ベランダの向こうに空き地が広がっている。

と書いて、これはベランダというのだろうか、と思う。部屋の入り口の外の共用の通路は、日本ではベランダと呼ばないかもしれない。

けれどもインドの人たちはそこに洗濯を干すのだし、場合によってはプラスチックの椅子をおいて寛いだりもする。だからここはベランダだ。

借りている部屋は通路の一番はじの角部屋なので、部屋を出て右手には他の部屋はなく、二、三メートルの間をおいて隣にも巡礼宿が建っている。

ベランダの正面は猿よけに金属の格子が取りつけてあるが、右手の端には格子がないため、時々猿がやってきていたずらをする。

それは困るのだが、朝の冷たい空気と何気ないインドの風景を楽しむためには、格子がないのはありがたい。

ツイッタで若いだろうお医者さんと瞑想のことでやり取りをした。

人間は痛いとか苦しいとかいうラベルを貼りつけることで、経験を固定して苦しみを増幅してしまう。

仮に舌を間違えて噛んで「痛い!」と思ったとしても、そこで「自分は間抜けにも舌を噛んでどうしようもなく情けない状態にある」などと思わずにすめば楽になる。

つまり、「何かのはずみで、自分は舌を噛んだ。噛まれた舌に痛みを感じる。けれども緊張せずにどの程度痛いかを落ち着いて見ていれば、やがてこの痛みは去ってゆく」と、冷静に捉えてやるのだ。

これができれば、痛みとそれに発する不愉快さをラベル付けして固定することがなくなるから、余計な苦しみは背負わずに済む。

そんなような話をしていたのだが、「やがてこの痛みは去ってゆく」というような形で考えることもやはりラベル付けなので、最終的にはこうした解毒としてのラベル付けもしなくて済むようになるのが、理想の状態なのだ。

そんなことを思いながら、ベランダの端に佇(たたず)んで何ということもないハリドワルの風景を見、冷たい空気を快く感じ、遠くから響いてくる街の静かな喧騒を聴いていた。

身のうちに優しい心地よさが広がり、自我の固まりが溶け出す。

そして、その変哲のない、けれども荘厳な味わいに満ちた風景の醸し出す安らかさに、境界をなくした自分が溶け込み一つになってゆく。

インド菩提樹の葉が、見えない風とともにさらさらと踊りながら、陽光を反射して音もなくざわめいている。

つまり、それだけのことなのだ。

生きるということは。

やがて日は高く上り、じりじりとアスファルトを焼くだろう。

朝早くからお寺の手伝いに行ったうちの奥さんは、しばらくすれば戻ってくるだろう。

その前にぼくは部屋の掃除でもして、玄米を研いで水に浸しておこう。

朝一番に部屋の中の窓際からベランダに出したマンゴー樹の小さな実生は、何も言わずけれどもしっかりと立って呼吸を続けている。

こうしてぼくらは、一日一日を生きていくのだ。

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#随想詩 #短編小説 #エッセイ #コラム #望洋亭日乗

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としべえ@ぷち作家
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