教育史実践としての学内史跡ツアー/白岩伸也
教育史実践としての学内史跡ツアー
白岩伸也
『戦争のかけらを集めて』の「あとがき」にて、保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』から「エヴァンゲリオンを見たとき以来の衝撃」を受けた私が、「大学で担当する授業でも、教育史実践と勝手に称し、小さな学内で史跡探訪を行った」と述べたが、今年も所属の北海道教育大学旭川校で実施した。
昨年は、こちらが学生を引き連れ、当時の写真や説明などを掲載した資料を用いて解説したが、今回は、学生にいちから学内史跡ツアーを企画・運営させることに。対象は1年生4名。かれらの所属する教育学分野は、小学校教員志望が大半を占めるから、入学当初にこんなことをやらされるとは思ってもいなかっただろう。
「学内史跡ツアーを自由に行ってください」と言われ、内心どうだったかはわからないが、学生たちは、目についた本学の記念誌をパラパラとめくり、無計画なまま学内を歩き回り、本学史料室にとりあえず行っていた。その調査結果が授業ごとに報告されるのだが、対象や内容はバラバラで、歴史像が結晶化される目途が立たない。
ツアーの日取りも決まっていたので、かれらは、かたちにするために、「昭和池」をツアーのメインに据えることにした。この池は、前身の旭川師範学校が、昭和天皇の即位を記念するために、1928(昭和3)年から造成に着手し、1931(昭和6)年に完成させたもの。この経緯は、私も事前に確認していたため、その解説でツアーを組み立てればよいと思ったのだが、「水はどこから引いていたのか」、「大きさはどのくらいだっただろう」など、新たな発見と疑問が出され、なかなかまとまらない。
「自由に」と言ってしまった手前、こちらが介入するわけにもいかず、学生たちは自力で調査と議論を重ねていく。そのなかで受講者の一人が、一つの説を提示した。池は、大学事務に尋ねたところ、現在雨水に頼っているが、師範学校時代を調べると、当時は用水路が存在した。その用水路は、国鉄本線の貨物支線である大町岐線の用地を通るため、それを管理する鉄道局に対して、敷地使用を申請し、許可を得たものである、と(図1)。私も知らない経緯だった。それまでは学生の調査が、計画性・合理性のないようにみえたが、史実は着実に積み重ねられ、それらが想像力を媒介にしながら結びついていったのである。
しかもそれは、学校と軍隊をめぐる、私の歴史実践ともつながっていく。じつは、大町岐線が、旭川師範学校から数百メートルの位置にあった、第七師団建設のために敷設されたことを、別の授業の受講生から教えてもらっていた(図1)。これを想起したとき、旭川師範学校が、学生の歴史実践を経由して、第七師団へとつながり、学都と軍都がもたれ合う歴史像が生成されていくのを感じたのである。
史跡ツアー当日。参加者は、主に教育史ゼミに所属する2・3年生8名で、私もオーディエンスとして傍観していた。行幸時に披露した天覧体操の様子を参加者に再現させ、それを撮影したり(図2)、昭和池のまわりで造成経緯に関するクイズを出したり(図3)。教員からすれば、幼稚にみえるものもあったが、昨年私が担当したときは、まったく思いつかなった歴史実践の数々が展開されていた。初回の授業で私が伝えた歴史実践ということばを覚えている学生はほとんどいなかっただろうが。
この学生と出会う前、せっかく入学したのだから、自分の大学に興味・関心を持ち、それを豊かにしながら、学校や教育をめぐる歴史的な見方・考え方を鍛えてほしいと考えていた。これが達成されたかはよくわからない。たしかに言えることは、私が、この大学と学生とまちをめぐる歴史的想像力を喚起され、もっと知りたいし、触れたいと思っていること。
たがいの歴史実践が、不確実性をともないながら交差し、それが主体を揺さぶる、スリリングな学内史跡ツアーに、これからも期待してみたい。
白岩伸也(しらいわ・しんや)
『戦争のかけらを集めて』担当章:
「攻囲される日本郷友連盟——公文書から国家の認識に迫る」
「[補章2]兵士の史料への招待 捨てる/拾うの位相から」
「エピローグ 環礁の屑拾い——「未定の遺産」化の可能性」
「あとがき」