【通信講座】 小説「ただの、ミジンコ。」 講評①
42,000字、120枚の半分くらいまで読んだ。
非常に書きなれているのを感じる。
やや感傷的、やや思索的な語り手「かなた」の観察力も細部まで行き届いている。
登場人物の造形はマンガ的で、やりとりにもリアリティーはなく、軽薄だが
かろやかでリズムがいいので、意外に読ませる。
それにしても
なにも起こらない。
居心地のいい温度、適度な湿気、
特異点のない平坦な凪の時間、いてもいなくてもいい人間たちが
ひまつぶしのように、ひからびた口唇からはなたれる空虚なことばで語る。
実にアカデミー流の芥川賞的作品なので
万が一、これを公募に出そうというのなら、加筆修正せずに
そのまま応募することをおすすめする。
(作者より)
特にアドバイスしてほしい点:
読んでいただければ私がやろうとしていることがわかってくると思うので、
それが成功しているか知りたいです。
文芸誌に掲載されているように講評されたい[?]ですが、現状この作品は値するかどうか。
「やろうとしていること」は分からなかった。
不安、あせり、挫折、困窮、いらだち、焦燥、疲弊、怒り、その他にみちた
現在の時局では
おそらく、このような作風が
これからさらに受け入れられると思う。
私は、断じて評価しない。
このような「お茶漬け小説」を憎悪している。
脂っこい小説に飽いてお茶漬け小説でも書きたくなったというほど、日本の文学は栄養過多であろうか。
しかし、日本の文学の考え方は可能性よりも、まず限界の中での深さということを尊び、権威への服従を誠実と考え、一行の嘘も眼の中にはいった煤のように思い、すべてお茶漬趣味である。
織田作之助『可能性の文学』
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