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【通信講座】 小説「つめたいおふとん」 講評

触覚と嗅覚に対する執着、オブセッションが
平易な語彙で明確に表現されている。
低俗な感傷ならざる芸術的叙情にかぎりなく近い。
 
着想、文体は個性的で
作者の問題意識は生きているし
真摯に独自の作風を練りあげていった過程も感じるが
構造に問題がないとは言えない。

どんなに丁寧に、大切にしていても、冷たいお布団も穿きならしたデニムも、仕事用の無難な服も、自分の肌にはなってくれない。自分を守れるのは自分だけという当たり前のことが、疲れているときには辛かった。祐二が外に出ても他人にあんな風に傷つけられることはない。マリは、祐二に比べて他人に侮られていると感じる。見た目のせいだろう。細くて小さい。化粧も薄くて、服装の色が大人しい。そもそも女というだけで舐められている。尊厳を、人権を、奪ってもいい、無視してもいい。そんな風に他人の目に映るから悪いのだ。痛痒い体に爪を立てて掻きむしりたくなったが、マリは冷たいお布団に両手の平を押し付けた。こうして私だって耐えている。私の体を傷つけることは私にだって許されない。そう気づくと、無遠慮にこちらの領域に踏み入って、傷つけてくる赤の他人の存在が更に恐ろしくなった。

作品の主題は「触覚」「嗅覚」ではなく
それらの身体感覚を通じて
女性性の否定、男性性の希求に飛躍することであり
ここがその「飛躍」のシーンにあたるが
作者が自分の書きたいことに対し無自覚なので
この展開まで十分に用意されていない。


「マリ」の恋人「祐二」が機能していない。
冒頭、ピロートークめいたやりとりで「マリ」の価値観を吐露させるが

「マリちゃん、ダメだからね、坊主頭になんかしたら。女性なんだからね」
「いいなあーーなんで女は坊主頭にしたらダメなんだろう?」
「いや、男もスーツの仕事の人は坊主禁止だと思うよ」
「そうなの? 禿げはよくて坊主頭はダメって変だよね」
意味のないルールが気になる質だ。なぜそうするのか、理解できないことには従えない。
「抗癌剤治療をやった人がスカーフとか頭に被ってるよね。あれがやりたい」
やればいいじゃん、と祐二は返すが、そう簡単ではないのはわかっている。
「会社であれをやってると、外しなさいって言われるよ。でも、今、闘病中で……って言って少し黙ったら、いける気がする」


このような場での発言は
冗談半分、あるいは冗談全部のたわむれとしか感じない。
作品の中心となる価値観、生きるか死ぬか、命がけのこだわりを提示するのにふさわしいシチュエーションではない。

「女性性の否定、男性性の希求」をはじめた「マリ」に対し
「祐二」は本当に受け入れる態度をとるだろうか。
男性性の象徴として「祐二」を登場させたのならば
かならず「マリ」との関係性が変化する。



異変を感じたのは、降りる駅の一つ手前でだった。
他人の手がマリの太ももに乗っている。
皮膚科で貰った「帯状疱疹」の薬を飲んだが、家に着いても痛みはなかなか治まらない。ストレスがかかって免疫力が下がるとこういうことが起こるのだと薄化粧の女医が言っていた。

この程度の事故と、漠然としたストレスでは
「飛躍」できない。
あるいは
「この程度」でも変化が可能になる
「マリ」の特殊な価値観を書いていない。




(作者より)
・何も考えずに止まらずに7000字書いてから、時間をかけてシーンを削ったり表現を変えたりしているうちに4000字まで減ってしまいました。それ自体は苦痛でなく、好きな作業です。しかし、やり方としては非効率・間違いでしょうか。


「何も考えず」に対しては
「考えて書いたほうがいい」としか言えない。
全体像が完全に見えている必要はないが
はじめの着想を越えてなにができつつあるのか
客観的に把握できなければ調和した作品はできない。
この作品の主題はタイトルの「つめたいおふとん」では象徴しきれない。



・noteに公開しているショートショートに対して「こういう文章が書けるなら、ショートショートの枠に自分を押し込む必要がない。もっと他のものを書いた方がいい」と講評をもらいました。(その人から川光さまの講評を紹介されました。)
一意見として、私の文章が向いているのはどういう方面だと川光さまは思われますか。


プロット、伏線、ストーリー構造の明確なエンターテインメント作品ではなく
人間の身体性などを書きつくすことに興味があるなら
いわゆる「純文学」を志向してはどうか。



・文芸に強い興味を持たずに生きてきたからか、芥川賞受賞作品を読んでも「え、これで終わるの?」と理解できないことが多々あり、自分のつくる話の締め方もわかりません。文芸作品の主題も掴み切れないで終わることが多いです。川光さまが、他の講評で、「文芸を難解でつまらないと思い込んでいる」と書かれていることがあります。自分にも少し心当たりがあります。
この観点から、今回提出する作品の進め方、終わり方はどうでしょうか。ご都合主義的、あるいは飛躍しすぎなのでしょうか。

着想、文体を生かしきるための構成に無頓着すぎる。
登場人物、シーン、会話などの部分が
全体の主題を表現することにほとんど貢献していない。
なにが書きたいのか、なにが書けるのか、なにを書きつつあるのか、はっきりと意識していなければならない。



・先述のように、文芸を書くことについて真面目に勉強したことがありません。自分の文章力を上げるための(人に見せるかどうかは考えない)習作として、思いついた場所から好きな方向に書き進めています。誰かに刺さる文章にするためには、今後、物語の構成方法の勉強をすべきでしょうか。それとも、私にはそれよりも先に勉強すべきことがあると思われますか。

まさに、「物語の構成方法の勉強をすべき」。



・また、今後もっと長い作品に挑戦するに当たって、勉強すべきことはなんでしょうか。長い作品を書いたことがなく、少し前までは長い作品を書くつもりもありませんでした。(二次創作でもきちんと仕上げたのは15000字程度。川光さまが講評で仰っていた「小説以前の設定を書き連ねただけで小説とは呼べないもの」で30000字程度が文字数で最高)
「短いものならプロットなど考えるより書いてしまったほうが速い」という文章術指南を目にしたことがあり、それに従っています。
でもこれは長いものを書けないことへの言い訳です。「長編を書くつもりはない」という言い方は、長編が書ける人の言い方ですよね。書いてから言えよと。ですから私も一度は書いてみたいです。書いた上で向き不向きを考えていきたいです。
さてマラソンならいきなり42キロ完走から練習する人はいないと思います。文章なら最初は原稿用紙100枚程度を何作も書いてみるべきでしょうか。それとも何作もではなく、ひとつの作品を人に見てもらって、直して……を繰り返す方が練習として大切ですか。


「短いものならプロットなど考えるより書いてしまったほうが速(早)い」とは
誰のことばか知らないが
ひとつのアイディアを「短いもの」にまとめるほうが、よほどむずかしい。
実際、この作品でまとめきれていない。
「ショートショート」ならざる100枚程度の短・中編小説で書くべき主題の深さを持っている。
完璧な構造、一貫性、統一、調和を求められる「短いもの」より
多少の冗長さ、破綻、遊びも許容される「長いもの」のほうが初心者には手をつけやすい。
「マラソン」と創作が意味のある比較だとも思わない。
「長いもの」を書くことには
「書くのがめんどくさい」以上の、また、以外の
敬遠する理由がない。

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