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【通信講座】 小説「彼女の立ち位置(仮)」 講評

19/49 まで読んだ。
冒頭、「崖の上」の衝撃的な映像からはじまるので
この落下事故(心中?)が主題なのかと思えば
作者も「多佳子」も、たいして興味がないらしく
予備校講師「藤木」の予備校生との関係性(「禁断の恋」)と同じか
それ未満の事件でしかない。

「多佳子」の行動理念はきわめて漠然としている。
なにを書けばいいのか分からないから、分かっていないから(なにも書けないから)
かぎりなく「見聞きし考えたことをすべて書く」に近い。


 多佳子は街を歩く。
 かつて、街には襞のような路地がいくつもあった。一方通行の車道が複雑に交差し不案内の人間を混乱させた。歩行者は狭い歩道に波を作り、横断歩道があってもなくても無尽蔵に道を横断した。車道はつねに渋滞し、かつ一方向にしか流れないので、人々は車の隙間を縫って造作なく向こう側へ渡ることができた。男や、女や、若い人や、年老いた人や、急いでいる人や、おしゃべりする人や、電話をする人や、ヘッドフォンで音楽を聴く人や、振り返る人や、時計を見る人や、笑っている人や、怒っている人や、無表情の人や、表情のよく分からない人や、様々な人間が歩いていた。
 えんぴつおばさんという人がいた。髪をまとめ上げたそこにまるでかんざしのように何本もの鉛筆をさしているのだ。木工職人の耳に挟んだ鉛筆のようなものだと思えばめずらしくはないのだろうが、えんぴつおばさんはつねにドレッシーな(しかし色あせよれた生地の)ロングスカートを穿き、フルメイクで、鹿鳴館を歩くかのように優雅に路地を歩いていたので、決して頭をペン立て代わりに使うほど慌ただしい勤労者のようには見えなかった。そしていつも小さな赤いビーズのバッグを手にしていた。小学生の頃、郊外からバスに乗って遊びに来た多佳子はえんぴつおばさんを見つけると友達と一緒に後をつけた。結構頻繁に見かけ、尾行したが、住まいを突き止めることはなかった。えんぴつおばさんはどこにも行きつかない。常に歩き続ける。
 当該物件の土地と建物を公図と謄本と照らし合わせながらざっと調べ、何カ所かデジカメで撮影し、引き上げる。
 市民が望んだのだ。車の通行がしやすく、清潔で、簡潔な街並み。無駄なものを澱ませる細かな襞を伸ばし、見通しをよくすること。風景の塗り替え。それはおそらく多佳子自身も望んでいたのだろう。少なくとも生活の糧になっていた。
立体交差道路を歩き、線路の東側へ出る。片側三車線に広げられた大通りの交差点にガラス張りの自動車のショールーム。磨き上げられたスカイブルーの新車に真白な内装。強い外光が反射し奥まで見とおせない。ひとの姿はない。
 東口側にはえんぴつおじさんが歩いていた。たくさんいた。競馬場があったのだ。女子小学生たちはえんぴつおじさんを追いかけることはなかった。そろってすすけた色のジャンパーやだぶついたズボン姿の彼らは親や先生がいう不審者のイメージに近しいと勝手に思っていたし、だいいち数が多すぎた。えんぴつおじさんの群れの中にときどき調教師に連れられた競走馬が歩いていた。狭い、車どおりも激しい駅前の道だ。えんぴつおじさんの群れに混じり、うつむき歩く馬の黒い巨体。混沌だった。競馬場と駅のちょうど中間地点には中央体育館があり、全日本プロレス(または新日本プロレス)の興行が重なると、無彩色の群れに、やや鮮やかさと興奮と活気が加わる。年齢層も広がる。さらなる混沌。あの群れに紛れたら、きっといつのまにか絡め捕られ小さな網の窓のついたトラックに馬と一緒に乗せられ二度と家には帰れなくなってしまうのではないかと少女たちは怯えた。東口側にはデパートもファンシーショップも路線バスの停留所すらもなく小学生の多佳子にはほとんど用がなかったから、ただ、自由通路の階段の上から遠目で眺め、漠然と未知のものに怯えていたのだった。
 今はもう何も怯えない。事務所へと戻る。積み上げられた書類を分類していく。すぐにファイルするもの、すぐに提出するもの、すぐに作り上げなければならないもの。連絡しなければならないもの、調べなければならないもの、保留にするもの、揃えなければならない資料。電話をする。電話を受ける。メールをチェックする。返信すべきところへ返信する。近隣とのトラブルで登記手続きの滞っている物件について上司に相談する。


以上、完全に不要。



「うっとうしい、何よりうっとうしいのよ。近寄らないでって言いたいけど、勉強にかこつけられたら言えないじゃない。足元見てんのよ。こざかしいでしょ」

ソープオペラ語で話す人間たちに
なんのリアリティーもない。



 空になった崖に向かって吠え続けるチョビと名付けた小型犬に思わず問う。小犬はその問いを肯定するように振り返る。

 それは、かつて、地平のかなたへ追いやった名だった。

 忘れたふりをして本当に忘れた体でいて、そのまま安定していたのだ。が、たったいま、それが本当にただ忘れたふりでしかなかったことに気づき、愕然とした。愕然としすぎて平然とする。

 お文学めいた、むだに大仰でまわりくどい表現が癇にさわる。


 こわれた機械のように八年八年と繰り返した。

こわれた「レコード」「ラジオ」であって
類型的、かつ不完全。最悪の比喩。


 繁華街で数少なく残っていた民家の独居老人が死に、相続登記のための現地調査に出向いた。

「数少なく」と「残っていた」にかかるのではない。
「数少ない」と「民家」にかかるのだ。


(作者より)
数年前に書いて放置していた作品ですが、今回、改めて読んでみて、どうにかまともに仕上げて新人賞投稿したいと考えています。
気になる点としては、届くべきところに届ききっていないというふうに自分で思うことです。もっと深めるべきところがあるように思うのです。なにかよわい。
ただ、それがどこなのか、具体的に考えれば考える程見えなくなります。
なんとなく、まとまってしまっているからかもしれません。
まとまってるかといってそれが良いわけではなく、ちいさくまとまりすぎていると思うのです。
アドバイスいただきたい点としては、
「この作品を新人賞に応募し、勝負する場合、何が足りないか」
です。

「まとまっている」とは思わない。

主題が、たりない、というより欠如している。
なにを書きたいのか理解できない。

『【通信講座】 小説「生まれつき機嫌が悪い」 講評』で

日本近現代文学における、モデル作者、モデル読者が
どのように想定されているか、とてもよく分かる。
ブルジョワが書き、ブルジョワが読む(ブルジョワ=中産階級/俗物、いずれの意味でもかまわない)。
ある意味で興味深いが、あたらしいものは表現されていない。
「クラシック音楽バー」、「セックス」、安価な苦悩とメロドラマ、
村上春樹、山田詠美、金原ひとみ、その他の亜流作家が通過し、踏みにじってきたぬかるみを(足跡は残せまい)
あえてまた行こうというのは
作者の積極的な創造力の発露、必然的な選択の所産ではなく
日本語で小説を書くなら、このような素材を布置すればいい
という先入観があるとしか思えない。
見通しはいいので確実にゴールにはたどり着けるだろうが、本当にこの道を行くのか。
走りなさい。拍手でむかえられるにちがいない。
(マラソンで最下位の走者は、あたたかく祝福されながらテープを切る)

と書いた。
お文学すぎる。
自分だけのことばで書いてみてはどうか。

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