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【通信講座】 小説「有老有死のヴァンパイア」 質疑応答①

語り手(モデル作者)の声と「佳代」の声の判別ができない。

自分でも、どう書くのが正解か、よくわからず書きました(7月の呟きに残っていました)。
読書した中で、一人称ではないが、語り手が主人公の上位互換的な存在に見えるものが多数あり、こういうものでもいいのかと思っていました。
作者が、「語り手=主人公」なのか「語り手≠主人公」であり「語り手=作者」なのかなど、意識して書かなければならない、ということですか?
語り手と主人公の声が判別できない場合、どのような印象を受けられますか? なにかはっきりしない気持ち悪さでしょうか、単に書き手の力量のなさが目につくのでしょうか?

一人称で書けばいいのに
と思ってしまう。
語り手が「佳代」に同情的であることが感じられると
客観的に小説空間を構築できていないような印象をうける。




どの部分が作者の技巧であり、「プロット」なのかまったく理解できない。

プロットとは、「いつ誰が何をする」「どこで何が起きる」を、読書における情報提供の適切な順番に配置すること(配置するための設計図)かと思っていましたが、違いますか? その理解は合っていて、プロット作りもしくは表現に失敗しているのでしょうか? 

「どの部分がプロットなのか」を、少しかみ砕いていただくことは可能でしょうか。
きちんとプロットがある(プロットで定めた内容を表現できている)小説であれば、小説からプロットを書き出すことができるけれども、私の書いたものからは不可能、ということですか?
また、読書において(少なくとも講評のための読書において)「プロット」「ストーリー」はそれぞれ別のものとして、感じたり読み解いたりするものですか?

「プロット」に対し無自覚、無意識に書いても
「いつ誰が何をする」「どこで何が起きる」ということは当然ながら考えているのであって
言ってみれば、ラストの小説風景から逆算して
シーンを付置できる計画性のことを指摘している。
この小説に似た作品は、語り手に近しい「佳代」の周辺雑記でしかない(プロットを書き出すことは不可能)。
当然ながら「佳代」と「ハラム」の関係性は一度破綻し
大団円で和解、発展すべきなので
私には計画性、「プロット」が感じられなかった。
読書において、少なくとも積極的な精読においては
「プロット」「ストーリー」を考慮せず鑑賞することはできない。




「佳代」と「ハラム」の関係性がまったく変わらない。小説らしくない。

現状私の書いているものにおいて、メインキャラクタ同士の関係性の変化を描くと「小説」に近づける(というかそれが「小説」としての必須条件である)ということですか?

そういうこと。



抑制のきいた無駄のない記述ながら、おもしろいところは
ポルノ的興味以外、特にない。おしい。
ポルノ的部分以外に描写が生動しているところもない。

ポルノ小説ならおもしろいものが書ける可能性があるなどと捉えるのは短絡的でしょうか?

ポルノの描写は生彩を欠いていない。
ポルノ作家を目指すならとめはしない。

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