【通信講座】 小説「情熱のゆくえ」 講評
個性的な文体、軽快なリズム、簡潔で平明な構文。
視覚的に正確、鮮明でもある。
200人の作品を講評してきたが
5本の指に入る文章であることはまちがいない。
「あの人、若く見えますけど、もう三十越えてますよね。結婚もしてなくて、彼氏もいない。それなのにこんな所でアルバイトしてるなんて」
「まあ、フリーターってやつだよね」
「高卒で就職できなかったんですかね」
「ハルさん、大学出てるらしいよ」
「え、あの人大学出てるんですか!」
「店長曰く。しかも、都内の難関国立大」
女子高生の心底驚いたという声がドア越しにもはっきりと聞こえる。二人は声を潜めるということすら忘れているようだった。
「それなのに、コンビニでアルバイトしてるんですか。三十も越えて。なんで?」
「さあ。店長も『社員に』って何回か誘ったらしいんだけど、断られたんだって」
「ますます意味わかんないなあ。正社員になれるなら、そっちの方がいいじゃないですか」
「普通はね」
「そう考えると、やっぱり普通じゃないですよね」
「普通ではない」という言葉に自覚のない衝撃を受けたのだろうか。急激に意識が自分の内側に向かっていく。
毎日を明るく、楽しく生きている彼女たちからすれば、理解しがたい生活なのだろうが、それが私の「普通」だ。
「普通」に拒絶され続けた私の、「普通」の穏やかな日々なのだ。
それではいけないのか。
通俗的な意味もふくめて
今日、広く受容されている「多様性」の観点からすれば
語り手の「それではいけないのか」という問題提起は
きわめて正当であり
70年代の社会ならば鮮烈な反逆思想なのかもしれないが
積極的に読書し、社会問題に対して
それぞれ、それなりの所感を持つと期待される現代の人々(読者)にとって
この問いかけはまったく意味がない。
当然、読者たちは「多様性」に対して理解があるし
少なくとも、理解を示すふりをしているだろう。
「それでいい」のだ。
「普通じゃないですよね」は
不当であるとして否定される運命にある。
語り手を挑発する「機能」でしかない
下劣で、悪意のみの登場人物(「女子高生たち」「彼女たち」)は
生きた人間ではない。
「ハルさんって、普通じゃないですよね」
耳に入ったのは、本当に偶然だった。
相手も私も、それについては実に不運だったと言わざるを得まい。
何せ、私は聞きたくないことを聞き、相手は聞かれたくないことを聞かれたのだから。
登場人物の内面を無視するという
構成上の致命的な犠牲をはらった上で
思わせぶりに冒頭で示される語り手の秘密はなんなのか。
読者は、当然、作者がこらした核心的趣向
ひいてはこの作品の本質である主題に期待するが
私はかつて、小説家だった。
しかし今は違う。
今の私はただの三十を過ぎた独身フリーター女で、小説家ではない。
私は小説家だとはもう二度と、名乗ることはできない。
などと弱音を吐くだけだった。
語り手の苦悩がくだらないとは思わないが
1000年前に
小説がすでに通過した主題において
なんらかのあたらしい視点がなければ
書く意味がない。
端的に言って
おもしろいはずがない。
書けなくなってはじめて気がついた。
いつだって隣には魔物が笑って座っていたことに。
得体の知れない真っ黒なそいつが、こちらを向いてニヤリと歪んだ笑みを浮かべたことに。
このような手のこんだレトリックで
語り手の問題意識の独自性を出そうとしたようだが
まったく成功していない。
誰もが通過する苦悩を
可能なかぎり劇的に表現したいという作者の意図は
語り手が凡庸な作家でしかなく
プライドだけが高く、ナルシストで
傲慢で、エゴイストであることを証明するという結果に終わる。
適当に放り込んであったキャンバスバッグを肩に引っ掛けて、ロッカーの扉を閉めると、油が足りないと文句を言う音が聞こえた。
一緒にバイトを終えた女子高生はさっきの話を私が聞いていたなどとは、露ほども考えていない。ただいつも通りに、何も知らないように振る舞う姿はあまりにも自然だ。
女というのは、隠し事がうまくなければ普通に生きていけない。
閉じ込められて停滞していた空気が我先にと外に向かって流れる。逃げ遅れた奴らを閉じ込めて鍵をかけると、体が急に重さを増した。
親指は目的地を見つけ、電源ボタンを強く押した。携帯がゆっくりと眠りにつく。
雪のように頭の中に降り積もる言葉の欠片が、繋がらない。
食べたあとの皿もそのままに、昨日栞を挟んだページを開いて読み始める。
船が砂浜から沖へと出て行くように。
意識が現実から、離れていく。
電源を切って放ったままの携帯を拾い上げ、目覚めを促す。「まだ眠い」とでも言うようにゆっくりと点灯した白い画面に黒いリンゴが浮かび上がって、やがて水族館で撮ったクラゲの画像が表示された。
日常的な一挙手一投足を
いちいち文学的に独白する語り手は
三文小説家のパロディーとして表現されているなら
とてもよくできた風刺だと思う(太宰治作品のように)。
タイトルも
これがパロディーであれば
と思う。
おそらく、真剣に苦悩している語り手を
真摯に、率直に書いているつもりなのが
この作品の致命的な欠陥。
「真剣に苦悩する」ことそのものは表現できない。
かろうじて興味を持てるのは
「浅葉友美」「足立泰文」との関係性で
その「苦悩」が語られているときだけ。
いくらレトリックを工夫しても
このような普遍的主題での
ひとりよがりの独白は、まったく効果がなく
それどころか有害であり
太宰治なみの才能か、よほど新奇な趣向を駆使しないかぎり
作者がまじめに書けば書くほど
語り手が不愉快な存在になっていく。
他の登場人物との関係、
特殊な状況において
語り手の内面を丁寧に書いていくことさえ意識すれば
作者の着想は実現すると思う。
冒頭のみの講評であるが
作者から
全体のあらすじを送ってもらった。
その一部に、
書けないと悩むハルに「焦らなくていい。そんなこともある。また書けるようになったら書けばいい。僕はそれまで待っている」と告げる。さらに、「普通じゃなくてもいい。本当に普通の人間なんていない。それがハルなら、それでいいんだ」と告げる。
「待っている」という言葉に背中を押されたハルは、原稿用紙に向かう。
「焦らなくていい」という言葉に安堵し、文章にならない言葉を紡ぐ。
とある。
われわれ読者は
欠落をかかえた語り手の成長過程を
当然、このように予測する。
予測されること、それ自体は問題ではない。
『【通信講座】 小説「生まれつき機嫌が悪い」 講評』で
一人称「来奈」の葛藤は
「クラシック音楽バー」で「ベストセラー作家」と会話して
相田みつを的教訓「迷いも矛盾もあってもいいから、背筋を伸ばして前を向いて、歩いて行けばいいから」を読めば解決するような安いものだろうか。
と書いた。
私は同じように
一人称「ハル」の苦悩は
「アルバイト先のひとつである書店」で「彼女の担当だった男・足立」と会話して
相田みつを的教訓「普通じゃなくてもいい。本当に普通の人間なんていない。それがハルなら、それでいいんだ」を聞けば解決するような安いものだろうか。
と書く。
一人称「来奈」独自の苦悩を表現するには
かならず様式、構造もあたらしい、独自のものでなければならず
30年前のブルジョワ文学のスタイルを無批判に踏襲するかぎり、作者の問題意識は凡庸な表現形態しか得られない。
自由な発想で書いてほしい。
どのような文体、プロット、構造を求めているのか、いまだ生まれない作品の声によく耳をすますことだ。
とも書いた。
私は同じように
一人称「ハル」独自の苦悩を表現するには
かならず様式、構造もあたらしい、独自のものでなければならず
70年代の社会的、経済的価値観を無批判に踏襲するかぎり、作者の問題意識は通俗的良識にとどまる。
自由な発想で書いてほしい。
どのような文体、プロット、構造を求めているのか、いまだ生まれない作品の声によく耳をすますことだ。
と書く。
『【通信講座】 小説「生まれつき機嫌が悪い」 質疑応答①』で
会話、説得、説教、教訓などはまったく無意味で
人に影響をあたえるものとしてあつかってはいけません。
行為、事故、事件を通じて得られた変化以外、読者は信じないのです。
と書いた。
これは
そのままあてはまる。
(作者より)
気になっているのは、「全体的に始まりにしては暗すぎる」と言われたことがありまして……。
もう少し明るい感じにした方が良いのでしょうか。
「明るい」「暗い」の問題というより
内容にふさわしい文体ではない。
ごく一般的な主題を語る口調が
読者にとってはおおげさに思えるだけ。
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