見出し画像

【通信講座】 小説「ボウキョウ 第8話」 講評



(作者より)
廃墟となった実家との対面・主人公の動揺もコンフリクトにはなりえないと言われるかもしれませんが、この話の一部分だけでも小説の主題として活かしようがないか、知りたいです。


「コンフリクトにはなりえない」というより
作者がそのように書いていない。
「小説の主題」として活きていないが
もちろん「活かしよう」はある。


『【通信講座】 小説「美ら海に漂う愛」講評』で

最近の小説に顕著な
「Twitterマンガ」化がとてもよく分かる。
設定、人物、状況はあるが
ストーリーがない。
関係性そのもの、雰囲気そのものを書こうとしている。
なにも起こらない。
この時間を切りとった理由が分からない。

と書いた。
この「第8話」でストーリーは展開されていない。
文体は非常に読みやすく、事物の描写は丁寧で
それ自体、ルポルタージュとして興味深く
おもしろく読みすすめられるが
語り手の反応は
ことばを変えて「かなしい」「せつない」を繰り返しているにすぎない。

観光地に行って
「すごい」「たのしい」という感想を述べているだけのレポートは小説ではない
というのと同じ意味で
小説らしく見えない。

シーンを通して、過剰な感傷が支配している。
語り手のモノローグが邪魔で
ルポルタージュの価値を落としているとさえ言える。

 正論というのは、いつだって耳が痛くて――
「帰れるまで、何十年かかるか分からないし、その間に家もボロボロになっていく。だから、そうなる前に……」
 ――そして、認め難い。
 母が身を乗り出して、私の頬を平手で打った。
 痛い。
 頬より、胸が。心が。

書きながら作者の気分が高揚しているのが分かる。
私は読んでいてはずかしくなったが、
少女マンガ的感傷に酔う読者もいるかもしれない。
しかしながら、これだけがんばっているのに
このシーンは全体の構造のなかで機能していない。



「震災以来努めて良い子であろうとしてきた主人公が、自分の家が廃墟になっている事実を受け入れる過程で自分の感情、意見を表出していき、最後は避けていた父に歩み寄る」

このプロット全体を構成する部分になっているだろうか。
どうしても円満な家族としか感じない。
深刻な状況ではあるが
おたがいの意見を尊重しあって、意思の疎通はできているし
完全にコミュニケーションが成立している。
「平手」なども、かえって
前提としている信頼関係を強調する。
これから、関係性の変化があるとは思えない。



『【通信講座】 小説「ボウキョウ」 質疑応答』で

説得、会話、あるいはメールなどで人間の信念は変わらない。
かならず「行為」「事件」を通して「歩み寄る」。
メール程度で「歩み寄る」ことができたのなら
それは「たいしたコンフリクトではなかった」
したがって「書く必要がないエピソードだった」ことを示す表現になる。

と書いた。
「家族で口論した」自体は
コンフリクトを生じさせるエピソードにはなりえない。
また、コンフリクトが解決したりもしない。
かならず「事件」でなければならない。

ためしに「事件」を考えてみる。
現在、父親の「記憶障害」がまったく機能していない。
これを活用して
父親は、実家を見にいかないことに納得したようだったが
現地の危険性を理解していないため
次の日、ひとりで勝手に被災地に向かっていた
という発端が可能だと思う。

語り手が追いかけるかどうか迷うことで
「避けていた父」を表現できないか。
父親は、どこか象徴的な場所へ行っているかもしれないし
なにか特殊な行動をしている気もする。
捜索という目的があれば
さまざまな場所へ動けるし
そこで出会う人々との関係性も書ける。
捜索の過程がイニシエーションとなり
語り手の価値観がゆさぶられ
ここではじめて「やはり来るべきだった。来てよかった」と思う。
この変化によって、次に父親と会ったときの関係性も変わる。

いろんな選択肢があるなかで
作者はもっともつまらない、なにも起こらないルートを
あえて書いているのではないかとすら思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?