オットー_ネーベル

【通信講座】 小説「アカシジアの宵」 講評

小説「アトモスフィア」を

他のあらゆる作品と同じように
この作品も「設定」と「ストーリー」の着想から書きはじめたのだろう。
 
「設定」と「ストーリー」のみで書いている。

と講評した。
 
しかるに、この「アカシジアの宵」は
「創作意欲」と「意気込み」のみで書いている
作品以前の
未分化な素材でしかない。
 
真剣に苦悩し、葛藤しながら書けば
そのまま作者の気持ちが文章にこもる
などとという信念は
一刻も早く捨てるべき。
作者の真摯な姿勢を斟酌してくれるのは
芥川賞だけ。
 
「主題」があって
視覚的「イメージ」とともに
「キャラクター」が生きて
はじめて芸術的感動が生動できる。

「主題」はきわめてあいまいで
「イメージ」も粗雑、
生きた「キャラクター」などいない。

「君、今度の日曜、俺の手伝いしてくれないか? 品川の大きなギャラリーで若手画家の作品を展示するんだが、受付をしてもらいたい」
 いきなりそれ? 俺、なんて言えば……。なんで俺なんだろう? そうだこの人の前では正直になることにしたんだ。
「なんで俺なんですか?」
「君、面白そうだし、見てくれもいいし……。学校のことは気にしなくていい。俺はここの校長の友人で、俺が忙しいからできない、と言ったのを無理に頼まれて授業をやっている。だからいいんだ……。君、名前は?」
「島津正樹です」
 今度の日曜にはなにも予定がない。俺みたいな精神病にはそんなに大勢友達もいない。やることもたくさんはない。受付ってどんなことをするんだろう?
「受付っていうのはな、入口にいて客の名前と連絡先を聞くんだ。君一人だけじゃないから、そう忙しくはならないし。イベントの説明をするヤツは他にいるから、そいつ等に任せておけばいい」

プロットの展開の都合で
無責任にしゃべらせるから
なにを考えているのか分からない(なにも考えていない)
不気味な、顔のない、死んだ人物にしかならない。
この「松野青史」と「城野啓二」は
書きわけさえできていない双子のゾンビ。
「松野青史」にいかなる魅力があって、語り手がひかれているのか
まったく理解できない。

読者を感動させるために
作者が感動しながら書く必要はない。
パズルを組み立てるように
合理的な構成をしてから手をつけたほうがいい。

「科学の感動と詩の正確さ」
ナボコフ

素材の段階に対しては
これ以上、言うべきことはない。

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