【通信講座】 小説「生まれつき機嫌が悪い」 質疑応答①
千本松由季 Official Blog
講評、どうもありがとうございました。いくつか質問させていただきたいと思います。
一番の問題は私の作品に新しさがない、ということだと思います。自分自身でも最近、古いメロドラマのようなものを書いているな、という意識はあります。1980年代の女性週刊誌に連載されていたような小説が好きで、ついレトロな雰囲気を真似てしまいます。 この頃、毎月の文学賞の締切りに合わせて、書きたくもない小説を量産している気がしております。でも新しさがなければ文学賞にも通らないわけですから、もっと真剣に新しさとはなにか、を考えてみようと思います。「どのような文体、プロット、構造を求めているのか、いまだ生まれない作品の声によく耳をすますことだ。」と講評にありましたが、どうすればいいのか方法が浮かんできません。自分で考えてみるべきことではありますが、ヒントをいただけたら幸いです。
川光 俊哉 Toshiya Kawamitsu
多かれ少なかれ特殊な状況において
多かれ少なかれ特殊な反応をする人物を描くのが小説です。
一般的な状況では、一般的な反応しか期待できないので
「クラシック音楽バー」をシーンとして選択した時点で
キャラクターの行動、反応は著しく制限されます。
類型的な場での俗悪な人物との会話が個性的で新鮮なものになるはずがありません。
いかなる変化をさせるか(成長して乗り越えるのか、さらに葛藤を深めるのか)
という計画から逆算して
もっともふさわしい場と、そこで関係をむすぶ人物を考えればいいだけのことで
センス、想像力と呼ばれる能力はここで発揮されます。
千本松由季 Official Blog
また、講評に「安価な苦悩」とありますが、私の作品のテーマは一貫して、「なぜ私達は生きているのだろう?」という実存主義的なものです。それも新しさのない、古いテーマにすぎないのでしょうか? それとも書き方によって、テーマは新しく活きてくるものなのでしょうか?
川光 俊哉 Toshiya Kawamitsu
いま一度、よく噛みしめてほしいのですが
「感情そのものは表現できない」
これは大原則です。
登場人物がいかなる苦悩、葛藤をかかえ
それらがどれほど深刻か、読者が理解するには
解決する過程が困難であることを示す以外にないのです。
「迷いも矛盾もあってもいいから、背筋を伸ばして前を向いて、歩いて行けばいいから」
で解決するとしたら
はじめからたいした苦悩、葛藤ではなかったのだという表現になり
このような作中人物に100枚のストーリーを用意する必要もないでしょう。
(むしろ一人称「来奈」が読んだ作中作を作者が書けばいいことになる)
会話、説得、説教、教訓などはまったく無意味で
人に影響をあたえるものとしてあつかってはいけません。
行為、事故、事件を通じて得られた変化以外、読者は信じないのです。
実存主義はもちろん古い。
70代くらいの人々が青春時代に熱狂した思想だと思う。
「なぜ私達は生きているのだろう?」を
実存主義と呼ばなくてもいい。
千本松由季 Official Blog
一貫性のあるキャラクター、魅力のある生きた人物、が書けないというのも、自分でもいつも意識しています。キャラクターを練るのが苦手です。よく創作の方法で言われるように、もっと登場人物の履歴書を熱心に作るべきなのでしょうが、私は履歴書を作るのがとてもきらいです。楽しくないのです。それも創作の一部なのですから、楽しくあるべきなのですが。それを作る前にいつも書き始めてしまいます。これも自分で考えるべきことだと思いますが、キャラクター作りが楽しくなる方法がありましたらぜひ教えてください。
キャラクターもそうですが、プロットもしっかり作る前に書き始めてしまう癖があります。どうしてもキャラクター、プロットを作るのが好きになれません。楽しくないのです。すぐに書き始めたくなってしまいます。そのせいで、土台のしっかりしていない、結末が安易なストーリーになってしまうのですよね。
川光 俊哉 Toshiya Kawamitsu
多かれ少なかれ特殊な状況において
多かれ少なかれ特殊な反応をする人物を描くのが小説です。
一般的な状況では、一般的な反応しか期待できないので
「クラシック音楽バー」をシーンとして選択した時点で
キャラクターの行動、反応は著しく制限されます。
無用の制限のなかで
動きようのないストーリーを動かそうとすると
キャラクターの一貫性をねじまげるしかないので
そうしているのです。
「環境、事件などの外的条件を操作してプロットを進展させるのでなければ
一人称「来奈」の一貫性を犠牲にすることになる」
というのは、そういうことです。
いかなる変化をさせるか(成長して乗り越えるのか、さらに葛藤を深めるのか)
という計画から逆算して
もっともふさわしい場と、そこで関係をむすぶ人物を考えればいいだけのことで
センス、想像力と呼ばれる能力はここで発揮されます。
キャラクター、プロットも狭義の固定された制約ととらえる必要はなく
関係性と場のバリエーションにおいて
適切なものを選択していくプロセスとでも考えればいいでしょうか。
この2つを十分に活用できていないので、単調になるのです。
千本松由季 Official Blog
この先のことを考えると不安になります。もっと凝った、詩的な文体を使ってみよう、とか、頭では考えているのですが、文学賞に出すために、むりに長編を書いているので、それをやっている時間がありません。小学生に読ませるような簡単な文章ばかり書いているような気がします。勿論、むりやり難しい文章を書く必要はないと思いますが。そもそも文学賞を意識して作品を書くのが間違っているのでしょうね? 以前講評をいただいた『そこまで寂しいわけじゃないし』の、切ないような文体が最近書けません。あれは短編で、文学賞は意識していませんでした。
川光 俊哉 Toshiya Kawamitsu
「形式と内容は分離できない」
これも大原則です。
ドストエフスキー、泉鏡花、シェイクスピア、万葉集など
あの形式以外の表現が考えられるでしょうか。
ブルジョワ文学的「内容」にふさわしい
ブルジョワ文学的「形式」が自然と選ばれたにすぎません。
「切ないような文体」で書きたいのなら
「切ないような内容」を構想するしかないと思います。
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