【通信講座】 小説「メビウス・コンプレックス」 講評
『【通信講座】 小説「龍國紀(仮)」 講評』で
異常に感受性ゆたかで思索的な若者が
ささいな日常の出来事に対し、ひたすら思索する。
アカデミー流のこのような作風は
「日本近現代文学」の枠組みのなかでは評価されるので
作者が目指している新人賞を受賞することもあるかもしれない。
新人賞受賞が目的ならこのままでもいいが
よく書ける作者なのに
若いうちから、こんなに保守的な作風に限定してしまうのは惜しい。
と書いた。
この作者も(おそらく)若いのに
実存主義小説、精神分析小説を志向することにどんな意味を見いだしたのだろうか。
深刻な問題意識を持ち、真摯に向き合っているし
細部の描写も個性的でおもしろい。
「ありがとう。てか、弁当持ってきたのかよ」
「そりゃ、腹が減っては戦はできぬって言うだろ。美味い?」
「うん、美味い。これ、ナンプラー?」
「そう、知ってる?」
「名前くらいはね。料理に使ったことはないけど」
「使ったらいいよ、美味しくなる」
「何に使えばいい?」
「なんでも。醤油と同じ」
なら、今度寿司にでも掛けてみようかな。スーパーで半額のやつを狙おう。その時一緒にアボカドも買おう。
このような他愛ない会話も絶妙な位置に据わっており
厳密に構成されてもいるが、とにかく古い。
人間がおのれの魂の怪物とのみ戦えばよかった最後の平和の時代、ジョイスやプルーストの時代は過ぎ去ってしまいました。カフカ、ハシェク、ムージル、ブロッホ、これらの作家たちの小説において、怪物は外部からやってきます。そしてそれは「歴史」と呼ばれているものです。もうそれは冒険家たちの乗る列車のようなものではありません。それは非個人的なもの、統御も予測もできない理解を絶したものであり、そしてだれにも避けられないものです。中央ヨーロッパの偉大な小説家たちの集団が近代の最後の逆説に気づき、これに触れ、これを捉えたのは、このとき(十四年の大戦の直後)です。
クンデラ 「小説の精神」
「最後の平和の時代」とはよく言ったもので
絶望し、苦悩する語り手の深刻さは分かるが
「魂の怪物」を「父親」に投影するという安易な手段によって
危機を乗り越えてしまうことで、本当の戦いを放棄している。
僕たちはリュックから硫酸のボトルを取り出して穴の中へ入れた。そして土を掛けて、その上で踊った。まるで生まれたばかりのように踊った。僕らは確かに父親を殺した。だからもう、これで誰も殺さなくていい。これから僕らは僕らの人生を、僕らだけで生きていける。父親さえ殺せた僕らなら、きっと。
ラストのモノローグが
ただの逃避であり、欺瞞であり、気休めにすぎないことをあばくべきで
ここから先に踏みこめれば、なにかあたらしい主題を得られたかもしれないと思う。
(作者より)
重点的に見て欲しいポイントとしては、
「プロット」が「小説」として立ち上げられる際の要点として
場面の転換/繋ぎ方、アクション/情景描写が不自然でないか、
より臨場感をもたらす為にはどこに気を付けて書けばいいかなどについて
ご意見を伺わせて頂けたら嬉しいです。
何卒、宜しくお願い致します。
構成はまとまっていて、なにも不自然な点はない。
エスニックと言われれば無条件にアジアのどこか、どこかは分からないけれど確実にアジアではある褐色の肌の住民が暮らす場所を僕らは思い浮かべてしまう。それは一体どういうことなんだろう。
ときどき、アカデミー流の「思索的な若者」になるのには閉口。
この世界には入口も出口も、始まりも終りもない。まるでメビウスの輪のように昨日が続く今日を生きながら、僕は出口を探している。
「世界」を「メビウスの輪」にたとえるのは類型的すぎる。
サルトル、カミュ『異邦人』を通過したわれわれは
いまさら実存主義、精神分析を復習する必要などないと思う。
ほとんど作品自体の否定になるが
その意味では、大部分がすでに書かれたことであって
「プロット」に組みこまなくてもよかった。
2020年のわれわれは、別にこの作品を待ってはいなかった。
やはり可能性があるとしたら、ラストのその先で、
これから僕らは僕らの人生を、僕らだけで生きていける。父親さえ殺せた僕らなら、きっと。
周到に作品を構築してきた作者が、懐疑的な語り手が、
こんな陳腐なスローガンを無邪気に信じているとはとても思えない。
まだ書きつくしていないのではないか。
ぜひ「その先」を書いてほしい。
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